「戦争の日本中世史」 呉座勇一 著

興味深い本であった。著者は現代にも眼を向けながら歴史を記述をしているところが新鮮である。中世における戦争を取り上げていて、全部で7章立てとなっている。「蒙古襲来と鎌倉武士」「「悪党」の時代」「南北朝内乱という新しい「戦争」」「武士たちの南北朝サバイバル」「指揮官たちの人心掌握術」「武士たち「戦後」」「”戦後レジーム”の終わり」である。

「蒙古襲来と鎌倉武士」の章では蒙古襲来までは平和に慣れた鎌倉武士だったと述べる。諸書に一騎打ちの戦いに馴染んでいた鎌倉武士が集団戦のモンゴルにやられたとあるが、よく引用される『八幡愚童訓』は鎌倉末期に八幡様の霊験あらたかとして書かれた布教用の本であり、あまり信頼できない。
源平合戦の時代から一騎打ち以外の戦いもあり、竹崎季長も5人で行っている。日本軍は善戦して、初戦は勝ったと考える。それは蒙古は陸上拠点を確保できていないからである。文永の役では神風はない。蒙古の威力偵察説があるが、ある程度の戦力で、敵と交戦して、相手の反撃度合いから敵の戦力を割り出すのが威力偵察である。大規模作戦の直前に行うものであり、撤退ではおかしい。威嚇説があるが、この後、日本側は実現しないまでも高麗侵攻を検討している。
『元史』では「官軍整わず、また矢尽く」とある。だからモンゴル敗退である。

ただ大変な戦いであり、御家人は自らの死を予想して遺言状的な所領の譲状が出てくるのはこの時からである。

文永9年に幕府は御家人に軍役を賦課しようと大田文(一国内の荘園・公領すべてについて、その田地の面積や所有者を網羅した土地台帳)の提出を命じるも、それもない国が多かった。幕府は全国の守護に作成を命じる。
御恩とは所領を給与することで、その結果として奉公となる。

所領が御家人以外に売られていて、軍事動員がかけられない状況であった。
永仁の徳政令(1297)が有名だが、徳政令とは御家人が処分した所領を一定の条件に基づき取り戻すことを認める法令。戻ったものは再びそれを売ることができない。あくまで御家人に軍役を勤めさせるための措置である。

文政11年に西国守護に御家人だけでなく本所一円地(幕府の地頭が置かれておらず、本所=荘園領主の公家、寺社が一元的に支配している荘園)の住人を動員、指揮する権限を与える。必然的に動員した人への恩賞の責任を持つ。

異国警固番役を鎮西御家人に課すが、御家人の惣領だけでなく庶子も惣領を介さずに直接番役を負担することを幕府は容認する。庶子にはチャンスだが、惣領制が崩れる。だから兄弟融和を説く譲り状が多くなる。非常時対応である。幕府は戦時体制を続ける。

「「悪党」の時代」の章では、よく引用される『峯相記』も史料的評価は高くないとする。同時代の資料には異類異形の悪党は出てこない。悪党は訴訟関係の文書に出る。すなわち所領関係でトラブルを起こした荘園主が訴える相手を呼ぶ言葉が悪党である。悪党には宗教の戒律を破る者という意味もある。

神領興行法は武士などに所有権が移っていた寺社領の返還をする徳政であり、そこで寺社は抵抗勢力を悪党と呼ぶ。
この時代に有徳人(金持ち)が生まれる。 建設・流通・金融業まで手がける。悪党と重なるところもある。貨幣経済が進展したからである。年貢の代銭納が成立したからである。中国で貨幣の銅銭から、紙幣を流通させる政策となり、銅銭禁止令が出る。そこで渡来銭が輸出されたわけである。
僧侶が活躍しているが、彼等は金融にたけていて、金貸しもしていた。僧侶は識字率が高く、情報が得やすい。

鎌倉幕府滅亡の原因は明確にはわからないのである。著者は楠木正成が1年半も幕府の大軍を相手にゲリラ戦をしたのも大きいとする。幕府のていたらくと厭戦気分の中から倒幕になったわけである。

「南北朝内乱という新しい「戦争」」の章では後醍醐天皇の政治が崩壊したのは足利尊氏を政権中枢に取り込めなかったからである。尊氏の望みは征夷大将軍になって幕府を開くことだが、その願いを叶えなかった。

後醍醐は復古的思想ではなく、宋学の皇帝独裁制を目指していたという説もあるが疑問。後醍醐の倒幕は自分の息子を天皇にしたかっただけ。倒幕が簡単にできたので慢心したのではないか。

この時代の武将は日本列島を長征している。尊氏は武将として優れていたが、九州の多々良浜では奇跡的に勝つ。
南北朝における北朝の優位は早い段階で決まる。尊氏と直義は仲がよかった。直義が行政・司法…伝統や秩序を重視、高師直が軍事…進取の気性に富む現実主義、実力主義という役割分担だが、仲違いしたことで、片方が南朝と組んだりして、次代の直冬も含めて、動乱が長く続いたのである。

当時の軍の食糧は自弁、そして略奪で調達した。兵糧は荷物でもある。移動のスピードも実は大軍を喰わすための必要からでもあった。足利軍は兵庫を起点にしているが、兵糧が集めやすい港町は重要であった。

一騎打ちから歩兵戦という戦術的革新もない。軍忠状や合戦手負注文(合戦における負傷を申告した)では矢による傷が圧倒的に多い。徒歩斬撃戦が流行したとはいえない。接近戦は功名のあかしの頸とりの為である。打物騎兵が増加するが、三枚打弓という飛距離の長い弓矢が使われる。これで遠距離からの歩射(かちゆみ)の方が有利になる。山城も出現し、ここでも歩射の遠矢となる。歩兵が弓矢。それで騎馬は弓から開放され打ち物戦になり、一撃離脱の戦いとなる。

「武士たちの南北朝サバイバル」の章では、動乱が長く続いたので 死と隣り合わせとなり厭戦気分が出る。また経費も大変。戦死リスク、戦傷リスクもあり、本領を留守にすると、本領も危なくなる恐れ。そこで相続、養子の早期決定、所領の分割、兄弟惣領、それに一揆(これは戦時立法)などで対応した。
各地の武士も内乱が60年も続くと思わなかった。

「指揮官たちの人心掌握術」の章では公家も戦ったことを述べる。南朝方の万里小路継平、吉田高冬、千種忠顕、四条隆資、北畠親房、顕家などだ。

当時の軍勢催促状も丁寧な文面である。欲得だけでなく大義名分も大事だった。

「武士たち「戦後」」の章では、足利義詮は直冬、時氏への積極攻勢を断念し、赤松則祐や中国大将の細川頼之を山名の抑えとして戦後処理した。
応安大法は半済令はいわれているが、寺社本所領の回復を公約したものである。実際は施政方針に過ぎない。
足利義満は大きな守護を牽制する。

「”戦後レジーム”の終わり」ではハト派の重鎮の畠山満家が死んでから足利義教は独裁を強め、嘉吉の変で殺される。平和は大事だが一点の曇り無く清らか無い平和はない。現実主義に立脚した畠山満家の無為をスローガンにしたような対処方法も一理ある。
武士も無益は戦争は望まなかった。それは平和主義ではなく、損得勘定であるが、不純な厭戦気分が戦争を抑止してきた事実も大事である。

足軽は悪党に依存し、アウトローであり、土一揆の構成員である(足軽が活躍の時期は土一揆がない)。
応仁の乱で、守護在京制が崩壊する。
将軍足利義政は守護の重臣(例えば浦上則宗、多賀高忠)に直接指示をくだす。守護が言うことをきかないからだが。また大和の越智家栄を和泉守護に任じる。朝倉孝景も越前守護にする。この将軍の政策は下克上を容認したことになる。

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