「江戸300藩の意外な「その後」」 日本博学倶楽部 著

いただいた本だが、面白かった。時代小説を書こうと考えている人には良いネタを提供してくれるような本である。幕末から明治になる頃の全国の藩97の話を書いている。97藩の様々な物語が2頁程度に掲載されているから、全体を紹介しにくいが、この時代のことで想像がつくように、各藩内で佐幕(親徳川)と勤皇(親薩長)の争いを中心に次のような話が印象に残っている。

高須4兄弟とは、美濃高須藩3万石に生まれ、他家に養子に行った優秀な4人の子供のことである。4人とは会津藩主の松平容保、桑名藩主の松平定敬と、尾張藩主の徳川慶勝、一橋家当主を務めたのちに高須藩主となった一橋茂栄のことである。戊辰戦争では徳川慶勝は新政府側、松平容保と松平定敬は徳川方についている。あらためて不思議と思う。ちなみに美濃高須藩とは尾張藩の支藩の一つである。

その尾張藩は御三家だが新政府についた。慶応4年に京都にいた藩主(京都にいると尊皇になりがち)が、尾張で発生した佐幕派のクーデターを抑えた青松葉事件を起こして、新政府側に旗幟を鮮明にする。御三家が徳川を裏切ったわけだから庶民にも馬鹿にされ、新政府でもあまり登用されなかった。

館林藩は関東にあり、、徳川綱吉が出た藩であり、当然に佐幕派と見られていたが、当時は長州藩主の実兄が養子に入って秋元志朝になっていた。藩士で勤皇の歴史学者岡谷繁実の影響で勤皇派が多かった。水戸とも近い場所である。

八戸藩の南部信順は薩摩藩主島津重豪の五男であり、なかなか有能な藩主だった。新政府軍に参加するが、奥羽越列藩同盟にも盛岡藩の関係から関与という苦しい選択を強いられる。ただ実家を考慮されたためか、朝敵とはならなかった。

宇和島伊達家の伊達宗城は四賢侯の一人だが、うまく生き抜き、小藩だが侯爵(石高基準だと30万石以上)になり、明治になってからも渋沢栄一とも関係が深かった。

仙台藩には「からす組」として細谷十太夫が博徒や農民も集め、組織し、官軍に戦う部隊があり、これがなかなか強かった。

薩摩藩は昆布が中国で人気になっているのを知り、琉球の黒糖を大坂に運び、そこで昆布を仕入れ、琉球で中国と密貿易。他に大陸から薬品、陶磁器を仕入れて資金を貯める。

日向の佐土原藩は名産の佐土原紙で藩札を作り「楮本銭」として流通させる。しかし藩財政が厳しく、これを増札したことで信用がなくなり、赤旗一揆がおきる。

加賀大聖寺藩は金銀細工に慣れた藩士市橋波江に命じて偽金を作る。温泉で古色を付けるなど、良く出来た偽金だったようだが、明治になって市橋に罪をかぶせて切腹させる。

信濃上田藩は学問が盛ん。このため農民が自我に目覚め、宝暦11年に大一揆を起こすが、明治2年にも大一揆を起こす。

肥前藩は鍋島直正が財政改革に努め、軍政改革をし、大砲鋳造の研究をする。文久元年にアームストロング砲を完成させる。これで薩長土肥の一員となる。

山陰の津和野藩は国学の大国隆正、玉松操などがいた。明治になってもキリスト教が弾圧されたが、その時に153人が津和野に配流される。国学者がいた為に改宗させようとして、そえが拷問につながり、36人を殉教させる。

藩主は佐幕側だが、国元の家臣の大半は勤皇方という藩もいくつかある。こういう状態を見ると、江戸時代は君主独裁ではなく、君臣合議制だったと思う。
淀藩の稲葉家もそうであり、鳥羽伏見の戦いの時に国元は幕府を裏切ることになる。

上総請西藩1万石の藩主林忠崇は藩主自ら脱藩して佐幕を貫き通す。

伊予大洲藩は6万石だが、これは維新の頃ではなく、享保の頃の話だが、藩主加藤泰温は陽明学者の川田雄琴に藩校を作らせ、多くの人に教育を施す。

こんな感じで、多くの話が所載されていて、面白い。

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