沖縄旅行① 旧海軍司令部壕

 沖縄に関する旅行会社のパンフレットはリゾート中心であり、これが時代の風潮なのだろうが、はじめてこの地を訪問するのであり、主な戦跡をまわりたいと思う。

 当時の沖縄の人口が約50万人。米軍は延べ54万人が攻撃。1500隻の軍艦が押し寄せ、「鉄の暴風」と呼ばれる弾丸の雨を降らせた。県民一人あたり約50発の大小弾になるという。沖縄戦の日本側の死者は約18万人。内沖縄県人は12万人、しかも内9万人余が一般住民という。

 米側が、原爆の使用で戦争終結を早めたことによって、より多くの日本人の命を救ったとの論理を出すが、沖縄戦の実態を知ると、一理あると思ってしまう。(私は原爆使用は人道上の罪と考え、戦争終結を遅らせたのは当時の日本側首脳の責任と考えているが)

 旧海軍司令部壕は那覇の南に位置する高台(海抜74メートル)にある。当時の海軍飛行場(小禄→那覇国際空港の前身)が近くに見渡せ、四方も開けた視界の良い場所である。この立地が通信設備にも良かったようだ。

 沖縄南部は北部と違って珊瑚礁が隆起した石灰岩からなり、多くの自然洞穴(鍾乳洞でガマとよばれる)があるが、ここは海軍によって掘られ、全長450メートルに及ぶようだ。現在は300メートル程度が公開されている。

 戦闘が激化した後は、洞の中で立ったまま睡眠し、トイレも無く、多くの傷病人、遺体もあるという状況(水は苦労したが食糧はあった)で、昭和20年6月13日に最後を遂げる。抗内からは現在までに2300名の遺骨が集められている。

 この戦いの中で、沖縄県民の辛苦に言及した電文を作り、戦死した大田實中将(海軍司令長官)は私の出身高校(県立千葉高、当時は千葉中)の先輩であり、やっと慰霊に来ることができた。

 電文の抜粋で、意訳をして紹介する。(原文にあたって欲しい)
「陸海軍は、県民を顧みる暇も無かったが、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子は相次ぐ砲爆撃によって家屋と財産の全部を焼却せられ、軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難して、なおかつ激しい砲爆撃に曝されて、乏しき生活に甘じてくれた。」

「若き婦人は率先して軍に身を捧げ、看護婦炊事婦はもとより砲弾運び挺進斬込隊すら申出るものがいた」

「看護婦に至りては軍の移動に際し、衛生兵はすでに出発したが、身よりの無い重傷者を助けて、さまよっている」

「陸海軍が沖縄に進駐以来、県民は終始一貫して勤労奉仕をしてくれて、物資節約を強要せられる中で御奉公してくれた」
「沖縄島の実情は、一木一草まで焦土と化した状況である」

そして最後に「沖縄県民、斯く戦えり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と結んでいる。

沖縄県民の辛苦の様子を具体的に書いており、何度、拝読しても目頭が熱くなる。


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