観楽読楽−観て楽しみ、読んで楽しむー

アクセスカウンタ

zoom RSS 「オールコックの江戸」 佐野真由子著

<<   作成日時 : 2017/03/13 21:47   >>

驚いた ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

なおなか格調の高い文章を書く著者である。初代英国駐在日本公使ラザフォード・オールコックの事跡を紹介している。彼は1859年に総領事、のち公使に昇格。2年の休暇をはさんで1864まで江戸と横浜に駐在した。
日本に来る前に1844年に中国の福州領事になる。アヘン戦争の終結(1842)後である。それから上海領事、広東領事を赴任してから日本に来るという経歴である。

医者の家に生まれる。医学の教育を受けるとともに、彫刻も好み学んだ。パリに留学し、解剖学、化学、自然史を学び、美術館に通っていた。
21歳で外科医として開業医の免許を取得し、イベリア半島の戦いに軍医として出向き、評価される。32歳の時に彫刻家の娘と結婚。スペイン、ポルトガルとの間で軍費の支払い交渉に携わる。従軍中に患ったリューマチ熱で両手の親指が不自由になる。それで35歳から外交官の道に入る。

当時の外交官は主要なヨーロッパ諸国とアメリカ、トルコに赴任しているだけであり、一方、領事は世界の遠隔地が赴任地であった。そういうことで、領事は政府内の鼻持ちならない上流意識の外交官との間で意思疎通で苦労することが多かった。

当時のイギリスはロシアの動きを気にしていた。植民地経営としてはインド(1857年にセポイの反乱)、次いで中国が優先される国だった。

オールコックは日本滞在記『大君の都』と『日本の美術と美術産業』を書く。

日本に赴任した当初はアメリカのハリス領事が頼りになると思ったが、だんだんとハリスの先任者ずら(自分の方が日本の事情に詳しい)が気になり、またこっちは大英帝国という誇りで葛藤を深めていく。日本側の外交担当者は、アメリカとイギリスの溝を気が付いて、それを自分の都合の良いように利用するというしたたかな外交もする。

神奈川を開港すると言って、実際は横浜開港。幕府は横浜は広義の神奈川に入ると言う。治安の問題から東海道から外したかったわけだが、このようなことの交渉に苦労する。

当時は外国人は町中でよく石を投げられた。刀を半分抜くような武士もいた。アメリカのヒュースケンが殺された時に外交官全員が江戸の公使館を引き払い横浜に帰るようにしたが、当事国のアメリカ領事のハリスは反対した。

英国も東禅寺の領事館を襲撃される。ピストルを持っていたモリソンは軽傷、鞭で応戦したオリファントは腕と首に深手を負う。150人から200人の護衛武士が日本側にいた。オールコックは護衛の戦いを評価しないが、ワーグマンは侍の防戦に好意的であった。真相はわからない。

オールコックはできるだけ各地を旅行し、富士山にも1860年9月11日に登る。熱海で飼い犬のスコッチ・テリアが間欠泉の熱湯に触れて死ぬが、地元の人が丁寧に埋葬し、慰めてくれるのに心を安らぐ。

オールコックは遣欧使節団の派遣を幕府にも、また誘致側のイギリス、フランス政府に進言して、実現される。同時期の1862年にロンドンで万国博覧会が開催される。そこに日本製品を出すことを考える。彼は美術に造詣が深いが、日本の工芸品を高く評価していた。

長崎から江戸への旅行のあらましをロンドンの王立地理学会に報告したが、その中で、日本製品の見事さに触れ、「公平な競争が行われるなら、マンチェスターでも、パリでも、リヨンでも、日本人はけっして引けを取らないだろう」と紹介している。

『大君の都』に、次のような一節がある。
「…あるゆる種類の工芸において、日本人は疑いの余地もなく、卓越した能力を示している。彼らの陶磁器、銅製品、絹織物、漆器、そして冶金の技術一般について、デザインと製作の双方の過程に精巧な技術が表現された工芸品などに接していると、私は何のためらいもなく、それらがヨーロッパ最高の製品と比肩しうるのみならず、日本人はこれらの各分野で、我々には真似のできない……作品を生み出すことができると言える。」

また『日本の美術と美術産業』にも次のように書いている。
「私は、首都の江戸に駐在する者としても、また、国内各地の旅行者としても、すでに長いこと日本に暮らしていたので、日本人が芸術面においていかに優れているかということや、日本の産業製品の長所を十分に知っており、高く評価していた。」

ロンドン万博には614点を送る。そして日本の使節団も、万博でこれらを見るが、彼らは出品作をそれほど良いものだとは思わなかったようだ。

なお遣欧使節団は各地で熱意と好奇心にあふれた見学ぶりを見せて、その態度はイギリスで評判になる。王立兵器工場では「タイムズ」紙1862年5月21日に「彼等のノートはメモやスケッチでいっぱいになっていたが、その様子からは、自国に同種の産業を興す際の参考にするため、十分な手本を入手して帰ろうとしているのが明らかに見てとれた。イギリス人を含めて、過去のいかなる訪問者のなかにも、これほど尽きることのない興味と熱心さとを、一行の全員がみせたグループはなかったと言っていい。」と報道する。

帰国したら幕府は朝廷に押されて攘夷となっていた。1863年6月25日に長州藩は外国船砲撃をする。生麦事件の時はオールコック不在のまま、薩英戦争する。

アーネスト・サトウが有名だが、オールコックも興味深い人物である。特に日本美術の理解者として評価されるべきであろう(西洋のジャポニズムの紹介者とされている)。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
「オールコックの江戸」 佐野真由子著 観楽読楽−観て楽しみ、読んで楽しむー/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる