「傭兵の二千年史」菊地良生 著

新書だが内容が濃く、色々と考えさせられる面白い本だった。
傭兵は世界で二番目に古い商売とある。一番は売春だが、肉体、血を売る商売だ。アテネ市民は兵役の義務があり、それは誇りだったが、都市の規模が拡大すると、防衛を市民だけではできなくなる。ギリシャ人もペルシャの傭兵になっていた。
古代ローマも兵役は市民の誇り。一方、カルタゴは傭兵が主体。一次ポエニ戦役で負けたカルタゴは傭兵に払う金がなく、彼等は反乱する。これがアフリカ戦争。
ローマが拡大すると、前109年のヌミディア王国との戦いに思うように兵が集まらない。執政官のガイウス・マリウスは兵役資格を撤廃して、志願兵とする。失業対策でもある。こうなると兵の質が低下する。戦争が終わると失業だから治安も悪化。将軍の私兵となる。
その後、ローマではゲルマン人傭兵が幅をきかす。傭兵隊長による権力簒奪もおこる。

中世、戦いは少数の騎兵の戦い。馬で突き槍が主で、この戦法はボートであがってくるバイキングやポニーでくるハンガリー騎兵にも有効だった。この間、騎士は殺生を浄化するイデオロギーの確立に努め、「神の戦士」と位置づける。傭兵として他に傭われることもあるが、出るのは国境までとか制限を加えることができた。

11世紀にヨーロッパは貨幣経済が膨張する。14世紀に中世最大の不況となる。ペストで農村人口が減る。野武士のような一団が生まれる。これが傭兵騎士団となる。騎士を使うより傭兵の方が安上がりとなる。

傭兵は失業(戦争がない状態)を恐れる。そこで諸都市が分裂抗争のイタリアが市場になる。イタリアルネサンスには外国人傭兵隊長とイタリア人傭兵隊長がおり、ともに悪辣非道であった。
スファルツアは父の跡を継いで傭兵隊長となる。まずミラノ公国に傭われるが、敵のヴェネチア、フィレンツェともよしみを通ずる。そしてまんまとミラノ侯爵になる。傭兵の戦争は八百長。契約期間が続くほど良いことになる。マキャベリはこれを問題視した。

フランス王シャルル8世の大軍がくる。そこにスイスの長槍部隊の歩兵密集方陣である。スイスは産業がないので出稼ぎ=傭兵となる。スイスは内部でスイス誓約同盟を結び、国家管理の傭兵となった。ハプスブルク家はこれに自由特許状をあたえる。はじめに海戦にはつかわないなどの条項があったが、有名無実となる。
スイス傭兵を使うまでは捕虜は身代金の人質だったが、スイスは捕虜をすぐ殺す。

ナントの勅令は1598年にフランスのアンリ4世が30年以上フランスで続いた宗教内乱のユグノー戦争をおさめるために出した。新教徒ユグノーに制限付きだが信仰の自由を認めるもの。ところが1685年にルイ14世が祖父アンリ4世のこの勅令を廃す。ユグノーは当時最高の技術者・知能集団である時計工や毛織物工業の織り元や職人もグループであり、フランスの国力が低下。
一方、ユグノーが移住したスイスでは時計産業が盛んとなって傭兵依存体質からの脱却の契機になる。

しかし、スイスは相変わらず各国に傭兵を売りつける。それはスイスの特権階級である都市門閥の懐に利益が入るからである。

スイス傭兵は忠実で、フランス革命でルイ16世に最後まで付き、全員戦死する。だから信用があり、今でもバチカンの傭兵はスイス人である。
長く続いたスイス傭兵産業であるが、1859年のイタリア統一を巡ってオーストリア帝国軍とフランス第2帝政・サルジニア王国連合軍が激突したソルフェリーノの戦いが転機となる。アンリ・デユナンが国際赤十字を創設せしめた壮絶なもの。あわせて26万の兵士が投入され、合計800門の大砲が使われ、スイス傭兵はかつてないほど大きな戦死者をだす。スイス傭兵部隊はついに反乱をおこす。これをきっかけにスイスは外国の正規軍以外の軍務を禁止する。1927年に正規、非正規を問わずにすべての外国軍隊への軍務が禁止となる。

スイスの永世中立国とは平和を愛するのではなく、どこの国にも傭兵で協力するから、国は中立にしますという意味で、したたかな国なのだ。

ドイツの傭兵はランツクネヒト。南ドイツは地味が豊で男子均一相続。そのうち細分化が進む、人が余る。当初はスイス傭兵と同じだが、服装が自由、というか異様だった。スイスの国家管理と違い個々の募集と応募。当初は民主的な軍隊だった。それは兵士集会における共同決定権の規定があったそうだ。ここで兵士側の代表委員(アミッサーテン)を選び、軍と交渉するようだ。傭兵隊には酒保商人が付随して歩く。もちろん娼婦もいる。ランツクネヒトの一連隊6000人に、ほぼ同数の民間人がぞろぞろついていくという状況だった。

スイス傭兵は国に帰ると、それなりに帰る場所があるが、ランツクネヒトは故郷でも嫌われる。軍の中の刑吏や憲兵は恨まれている可能性があるから、傭兵軍が解散すると、すぐに姿をくらますというのが面白い。

ドイツ傭兵で有名な隊長はゲオルク・フォン・フルンツベルクである。兵を大事にした。1524年のパヴィアの戦いで大勝する。
ただし、フルンツベルク逝去後、スペイン傭兵と一緒に1527年にローマを襲い、略奪の限りを尽くす。

1526年に皇帝カール5世は金融業者ヴェルザール家に対して、莫大な借金との引き換えに南米ヴェネズエラの全面的な統治権と司法権を譲渡。金融業者は傭兵隊長フェーダーマンと契約を結び、南米に派遣する。スペイン人以上の悪事を働く。
このようなことから、ランツクネヒトは蔑まれる。

傭兵に対して正規軍だが、1568年にネーデルランド北部7州がスペインの弾圧に立ち上がり、1578年にユトレヒト条約を結ぶが、マウリッツ・オラニエは①兵士に給料をきちんと払う、②教練と厳正な軍律兵士は工兵の仕事もやった。塹壕を利用したマウリッツが、多くの縦列の軍で勝つ。方陣だと1隊に400~600が必要だが、これだと100人で済む。余った歩兵は火縄銃隊とする。将校階級の意義を確立する。命令が聞こえるように沈黙が要求。早く軍を整えることができた。
騎兵に重装備の甲冑を脱がせ、騎士の槍を捨てさせ、剣と小銃で戦う。砲術も特殊技術が必要であったが、重量を軽くし、特殊性を払拭させた。

この後のドイツ30年戦争(1618~1648)はまだ傭兵の時代。傭兵が喰うためには戦争は続いた方がいい。

この後、それぞれの国が国家主権を持つようになり、それぞれに絶対主義王政を進めていく。

30年戦争後のルイ14世はスイス傭兵に親近感を寄せる。ルイ14世の頃、スイスの人口は90万人。そのうちの12万人がフランス軍に仕えていた。ルイ14世は30万の近代化された軍隊を持っていた。当時のフランスの人口は1800万人、オーストリアは800万、スペインは600万、イギリスは700万だった。

1792年9月にヴァルミーの戦いでフランス革命軍が「フランス国王万歳」でなく「フランス国民万歳」と叫び、「祖国、然らずんば死」に初めて覚醒。これから国民軍になる。そしてフランス・ナポレオン軍の桎梏から抜けだそうとする諸国民戦争で、祖国意識は全ヨーロッパに瞬く間に広がる。

なお、トラファルガー沖の海戦(1805)でも多くのドイツ人傭兵水兵が戦っているようだ。

アメリカ独立戦争(1775~1783)でも、ドイツ諸侯がイギリスに売った傭兵の数は約3万人。領内にこれといった産業がないカッセル伯爵家が一番多い。ドイツ国内では無宿者、渡り職人、大道芸人、ロマ(ジプシー)、大酒飲み、盗伐人、辻音楽師などが狙われる。サーベルと銃で脅かし、宿も決まったところで光りをつけたまま就寝させて脱走を防いだ。この内約1万人はドイツに戻ることはなかった。ワシントンはドイツ傭兵に対し、土地を与えるなどで脱走をすすめた。

近世でも傭兵はいる。フランスは1831年にルイ・フィリップは外国人部隊創設する。アルジェリアの占領政策の為だが、王位継承問題で内乱のスペイン政府に80万フランで売る。4千が500になる。
この後も続く。使い捨ての特殊部隊としてメキシコ干渉戦争、インドシナ、マダカスカル侵攻作戦で多くの犠牲を出す。フランスの国土防衛ではなく植民地政策の為。

今でも、このような外国人部隊に入隊する人間がいる。純粋志願兵であり、冒険心としか言いようの無い人間が志願している。
第一次世界大戦のあとに、ドイツで右派の一部が義勇軍をつくる。昔のランツクネヒトのようにだ。その指揮官の一人がエルンスト・レーム。1931年以降にナチスの突撃隊の隊長になり、ヒットラーの権力・軍掌握が進むと、暗殺される。

スイス、ドイツとともに傭兵が多かったのはアイルランド。ルイ14世の陸軍に12000~14000人もおり、ワイルド・ギース(野生のガチョウ)と呼ばれる。




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この記事へのコメント

まあちゃん
2017年02月12日 20:02
異国の傭兵についての見解、やさしく説かれて、面白く読みました。
日本に、傭兵は無かったのでしょうか? 内田吐夢監督の映画「宮本武蔵(中村錦之助主演)など見ますと明らかに戦国の世に、手柄や出世を求めて故郷を去る者の姿が描かれています。あれは単なる物語でしょうか?
地元では、産業も無く、食えないから出て行ったのでしょうね。現代ですね。

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