「攘夷の幕末史」 町田明広 著

従来の幕末史が、尊皇攘夷対公武合体の対立を説いていたが、著者は大攘夷対小攘夷の対立とする。大攘夷とは今は欧米に対して力が無いから通商をして国力を増してから攘夷をするという立場である。一方、小攘夷とは今すぐに攘夷をすべきという論である。すなわち、幕府方の要人も攘夷という点では同じだったということを説いており、なるほどと思う。

18世紀後半はロシアが脅威であった。8代将軍吉宗の時代(1739)にロシア探索船の一艘が仙台湾航海をし、もう一艘は房総沿岸への上陸を果たした。その後、ロシアの財政窮乏や英・仏・プロシャとの関係悪化からロシアの東進は停滞。しかしエカテリーナ2世の時代に積極化し、安永7年(1778)に根室に来た。そしてラックスマンが寛政4年(1792)に来航し、定信は国書を与えて長崎入港をうながす。翌年レザノフが来た時に定信は失脚しており、レザノフは無視され、その部下が怒って文化3年(1806)に松前藩領を襲う。

以降、軍事政権の幕府は武威を誇示するために、対外強硬策をとる。それはアヘン戦争の報が伝わるまで続く。

ロシアの南下に応じて、東北諸藩の経世家の工藤平助、林子平、佐藤信淵が論を発表する。また松平定信は幕府の権威を朝廷の存在で実質化しようとして大政委任論を唱える。これが朝廷の力を高める。また平田国学なども興る。

阿部正弘は譜代門閥を打破して人材登用を進めた。有能な藩主の意見を聞いたり、有能な幕臣を登用した。この弊害として身分や組織を超えて議論する風潮が広がる。阿部は開国派とされるが、もちろん大攘夷主義で、開国して国力増強の上で攘夷ということである。幕閣は井伊大老も掘田老中も皆、この考え方である。

勝海舟も同様で、海軍をおこし、征韓論的な言辞を述べている。弟子の坂本龍馬も同様な大攘夷主義者である。

朝廷は即刻攘夷派が優勢で、その勅命(朝廷の命令)と、襲来してきたら攘夷という台命(将軍の命令)が末端で混乱を生んで、長州藩と小倉藩の争いを生む。長州藩も藩の上層部は幕府に逆らうような気はなかったが、高杉晋作と奇兵隊などの力が強くなって、小攘夷が主流となる。長州藩は文久3年(1863)に外国艦隊を砲撃する。

各藩も勅命と台命の狭間で揺れ、その中で小倉藩が幕府に長州藩の無謀を訴え、幕府の検視として派遣された朝陽丸に対して、目付を殺し、小倉藩士が切腹という事態になる。これには幕閣も強硬となり、京都で元治元年(1864)8月18日の政変が起こり、長州征伐となる。


この記事へのコメント

まあちゃん
2017年02月27日 13:30
大攘夷という言葉は初めて聞きましたが、考え方は後後に悲惨な結果となった軍国街道まっしぐらという富国強兵策に通じているのでしょうか。それ以前に英国と清国の間に起きたアヘン戦争で香港が100年間英国の統治下におかれた、それを当時の日本の上層部(当然勝海舟も)は知っていましたし、その恐怖心が国家という意識を刺激し、明治維新の引鉄になったとも思えます。

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