「朝鮮人のみた中世日本」関周一 著

中世=特に室町時代に日本に来た朝鮮人の記録、たとえば「老松堂日本行録」、「海東諸国紀」を中心に、朝鮮人から見た当時の日本の様子を書いている。室町時代も朝鮮王朝は通信官、回礼使、通信使の名目の使者を出していた。一方、中国の方は日本との交流は倭寇の影響か、交流は少なく、記録は残っていないようだ。

朝鮮人の記録に、室町時代の日本の庶民の姿などが書いてあって、それがこの本で紹介されているかと思っていたのだが、そのような描写は少ない。朝鮮人は日本には外交で来ており、その外交の場面が当然に多い。

はじめに日本の外交の歴史を簡単に書いている。8世紀は唐や新羅、渤海と外交していた。しかし新羅とは779年で途絶え、遣唐使も9世紀前半に2回だけ、渤海使は919年が最後となる。
この後は海商が貿易を担い、中国人などが博多に住んで、実施をしていた。それに僧などが乗船して中国に渡っていたわけだ。

そしてモンゴルが世界帝国を作る。これで大規模な交易ルートができる。その後、日本は寺社造営料唐船を往来させる。天竜寺船などだ。1323年の新安沈没船が、その実態を伝えている。14世紀後半には倭寇(前期)が出現し、中国、朝鮮の沿岸を荒らし、食糧(米)と人民を略奪する。朝鮮(高麗)は1366年に日本側に倭寇の禁止を要望するために使節をだす。室町幕府は頼りにならず、九州探題や大内氏とも高麗は交渉する。

足利義満は明に臣下の礼をとって、貿易をする。次ぎの将軍は断交し、6代足利義教が再度、明との国交を再開する。
朝鮮からも室町幕府や大内氏、対馬などに使節がつかわされる。

1419年に倭寇が朝鮮を侵攻。この後、朝鮮は対馬を攻める。応永の外寇である。この後に朝鮮から宋希璟が日本に派遣され、彼は「老松堂日本行録」を残す。
対馬での交渉、博多の様子、博多での交渉、赤間が関の様子、瀬戸内海での海賊のこと、尾道、室津、魚住、兵庫の光景、特に宿舎が寺になったからか僧院でのことなどが多い。各地の光景について記したところも、それほど具体的ではない。
そして京都に着いたら、応永の外寇に対する認識の差を埋めるべく努力をしている。天竜寺、臨川寺、西芳寺、等持寺に出向いているがこの記述も面白くない。日本の蚊が大きいことを記しているのが印象的だ。

この書で紹介されている日本の風物では、日本の性風俗(女性の傾城だけでなく男色)とか奴隷(捕らえられた中国人、朝鮮人だけでなく日本人も含めて)のことがある。また日本の三毛作の様子なども書いている。海賊から朝鮮の船は財物が少ないが琉球の船は財物が多いというようなことを聞いているのも面白い。

「海東諸国紀」は申叔舟が書き、15世紀の後半である。稚拙な地図を紹介している。関東公方が関東を支配していることが明記されている。下総の古河が東国の都と認識されている。こちらは日本の風俗が少し詳しく書かれており、例えば剣が精巧なことを書いている。また食器のこと、家のこと、男女が字を習っていることなどを書いている。

あと『朝鮮王朝実録』から朴瑞生の復命書を紹介している。ここでは銭が普及していること。橋が通行税を維持費として建てられていること、市での商品の置き方における朝鮮との違いや、水車の利用方法など、日本から学ぶべき点として書いている。
ただし、このような記述は少なく、日本はいかに遅れているかを書いた朝鮮人の記録の方が多いようだ。


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この記事へのコメント

まあちゃん
2017年01月18日 19:58
日本と朝鮮半島は、万葉時代から往来があったようで、万葉集の言葉も古代の朝鮮語で書かれているという学者の解説書もあります。その真贋は別として、古代、きわめて交流の深かった地域であったことは、奈良天平期の美術品(仏像など)の由来を見れば、一目瞭然。それが時代の下るにつれて疎遠になったように見えるのは、いま、まだ交流史が解き明かされていないせいかも知れません。今回のブログを拝見し、その全体像が
見えない歴史が、あるような気がしてなりませんでした。感謝。

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