「天下統一とシルバーラッシュ」本多博之 著

この本は、石見銀山の開発で、日本及び東アジアの政治経済の状況が変わったということを書いているが、内容を私が理解したかは自信がない。
石見銀山は、大永年間(1520年代)に博多商人の神谷寿禎が船で沖を通る時に、山の頂が赤く輝いているのを見て吉兆ととらえ、昔の銀山を復興し、大量の銀を産出するに至ったと伝わる。近年、別の資料から大永7年(1527)のことと推測されている。

そして1530年代に朝鮮から博多商人を通じて、灰吹法が伝わる。それまでは朝鮮に貴鉛にしたものを持ち込み、製錬したこともあったようだ。
天文8年(1539)の遣明船派遣で日明貿易ではじめて銀が使われる。同じ頃に朝鮮に日本から銀を持ち込み、綿布を持ち帰る博多商人がいた。綿布は船舶の帆にも利用される。

日本銀の大量流出(1530~40)は東アジアの貿易や国際関係を構造的に変化させる。日本の銀は福建商人やポルトガル商人の日本来港をうながす。1550年代は後期倭寇の王直(1557年に降伏)が活躍し、マカオに移住したポルトガル人も日本と交易する。ポルトガルは日本では大内氏の山口に拠点を置くが、大内氏没落後は大友義鎮の豊後府内、臼杵に拠点。また大村純忠の寄進による長崎を拠点にする。銀によって、鉄砲に必要な硝石や、弾丸にする鉛も輸入した。

1567年に明は海禁政策を緩和する。1571年にはスペインがフィリピンのマニラを造り、メキシコのアカプルコとの間に定期航路を開設し、そこに南米のポトシ鉱山の銀が持ち込まれ、それが明に流れ込む。 フィリピンでは1570年代のはじめまでは日本からは銀の輸入が一番多かったが、80年代から90年代には銀は姿を消す。

石見銀山の技術は生野銀山など各地に伝わる。肥後の相良氏も領内の鉱山を開発している。

戦国から豊臣中央集権になるに従い、豊臣政権は大坂と京都(伏見)を核とする求心的な流通構造が成立。この時に海賊は邪魔になる。それまで各地の戦国大名は海賊も利用していたが、天正16年に海賊停止令が出される。また外交権の再統一をもたらし、ばはん禁止令(倭寇の禁止)も出す。

豊臣政権の公役賦課に対応する為に、諸大名は領国総検地などを強化する。また豊臣政権は国内の金銀鉱山の開発を積極的に進める。その一部を大名から上納させる。文禄。慶長年間には金銀の社会浸透が進む。

関ヶ原後に徳川家は国内の主要鉱山を直轄にする。慶長6年には石見銀山は大久保長安が銀山奉行になり、慶長8年には佐渡金銀山の開発に向かう。同じ年に石見銀山の経営者の宗岡弥右衛門も佐渡に渡る。
石見の2代奉行は竹村丹後守道清である。
徳川家は貨幣の鋳造、発行権を持つ。家康は慶長6年に慶長金銀を鋳造。
国内的には金を中心とする四進法の通貨体系。一方で国際通貨の銀にも積極的に対応。17世紀初頭に朱印船貿易。灰吹銀が持ち出されないように統制。この後、江戸幕府は外交、貿易も独占する。

オランダとの貿易では日本銀が輸出され、アジアの生糸などが輸入される。寛永12~18年には銀が大量に輸出される。幕府は国内の銀不足を心配して銀輸出を抑制。寛永年間にキリスト教禁教が強化され、通商は縮小する。寛文8年には銀の輸出を禁止。しかし11年には丁銀の輸出を許可。寛文年間には寛永通宝が普及する。17世紀の半ばに銀の輸出を禁止し,代わりに銅貿易が伸展する。



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