「日本近世の歴史2 将軍権力の確立」杣田善雄 著

家光と家綱時代のことが記されているが、私にとって特に目新しい視点はなかった。家光が「生まれながらの将軍」と述べたと言う逸話は確たる証拠は無いようだが、実際にはこの言葉のように将軍権力を確立していく。

家光は20歳の時に将軍宣下を受ける。その時、秀忠は45歳であり、秀忠が亡くなり名実ともに3代将軍になるのは家光29歳の時である。家光は多病であり、その為、将軍政治は機構を整える。鎖国体制が確立し、島原の乱と寛永の大飢饉は戦時体制を凍結させ、平和と安定の社会へと転換させる。慶安4年に家光が死去して、家綱が将軍宣下をうける。

家光は代始めに加藤忠広を改易する。事前に伊達政宗、前田利常、島津家久、上杉定勝、佐竹義宣を呼んで伝達。紀州徳川家の頼宣にも伝える。加藤忠広は品川で足止めされ、池上の本門寺に幽閉される。嫡男光広が偽手紙で謀反を起こすようなことを書いていたことが直接のきっかけであった。

次いで徳川忠長が改易される。秀忠在世中に配流処分されており、加藤家の改易後に高崎に幽閉する。

翌年、柳生宗矩など4人を惣目付に任じる。さらに翌年国廻り上使を派遣し、大名に国絵図の提出を求め、全国の道筋や境目を検分。

出頭人政治から老中政治に転換していく。また旗本を整備して、加増もする。大番、書院番、小姓組番をあわせた将軍直轄軍の兵力は2万人になり、譜代大名などの軍事力を含めなくても加賀前田家に匹敵する。

軍事が番方、行政・財政・裁判が役方と分かれる。

寛永10年に軍役令を改定。200石の旗本も、8人の伴が必要だが、元和の軍役令に比べれば軽減されている。

寛永11年に上洛。総勢で30万7000人となる。京都の町人に銀5000貫を下賜。洛中1軒につき約134匁となり、米で3~5石買える金額。大阪、堺、奈良の町には地子銭(土地税)を免除。京都は織豊政権時に免除されていた。
領地朱印状を発給。また寛永の寺院改めを行う。次の家綱の寛文印知では1507件。平均所領高は170石ほど。大半は50石未満が寺院領の実態である。

キリシタン禁圧と武器輸出禁止が守られないので朱印船貿易を中止。日本人、日本船の海外渡航は全面的に禁止。ポルトガル人を出島に、キリシタンを禁令。宗門改め制度をつくる。

寛永14年に島原の乱。オランダからも砲撃させる。寛永15年に落城。寛永16年にポルトガル人を追放。オランダ人を出島に。遠見番所を九州、四国、中国、琉球に設置。正保の国絵図の提出を求める。

日光東照宮を造営。家康の遺言を聞いた天海、本多正純、崇伝だが、天海以外は死んでおり、天海が改葬まで担当して家康を大権現とする。(大明神ではない)

朝鮮とは対馬の宗氏が国書を偽造して国交を回復していたが、朝鮮は朝鮮で清に圧迫されていて、日本と事を荒立てることなく、何となく通商。

寛永年間は慢性的な不作。寛永15年に九州で牛疫。牛は全滅となる。寛永17年には中国から近畿に広がる。寛永17年に蝦夷駒ヶ岳が大噴火。寛永18年干ばつ、大雨。19~20年に寛永大飢饉。農民を収奪する構造を改める。軍事から民事に力を注ぐようになる。

平和の中での鬱屈が出て、かぶきモノが現れる。牢人の反乱として慶安事件、その前に松平定道遁世事件がある。牢人の増加を防ぐ意味もあって末期養子を認める。

寛永18年に家綱が生まれる。慶安3年に家光逝去。家綱は11歳で将軍。集団指導体制。
殉死が禁止される。寛文8年の宇都宮奥平家の事件で徹底される。


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