「馬と人の江戸時代」 兼平賢治 著

江戸時代の、特に南部藩、仙台藩という馬産地の史料をもとにまとめられた本である。一般向けに書かれているが、歴史の専門書でもあり、読みやすいものではない。
馬は江戸時代に、上級武士にとっては身分の象徴として大事なものであった。現に下級武士は徒士(かち)、足軽と自分の足で歩くような名称が付けられている。刀を愛好する者だから、馬のことも知っておこうと読んだ次第である。

昔から日本は東は馬、西は牛と言われていた。古代から東北の馬は垂涎の的であり、徳川将軍家も毎年、盛岡、仙台藩から馬を購入していた(前期は秋田藩からも)。正徳、享保の頃は1頭約25、26両ほどの価格であった。
武蔵では府中で馬市が開催されていたようだ。今の中央競馬の府中競馬場は、その縁であろうか。

将軍家は公儀御馬買衆を毎年東北に派遣していた。松前、津軽、南部については同様に鷹の買い付けも行っていた。他の大名も馬買いに派遣してくるが、彼らは脇馬買と称された。
東北の馬は奥馬と呼ばれ、おとなしくてよく馴れる。また馬格も大きいとして愛好された。

五代綱吉は生物に対する憐れみを政策にしたから、馬の筋を切るなどして見た目をよくする行為を禁じる。八代吉宗は馬術を非常に好んだという際だった特色がある。吉宗は大柄であり、馬も大きいのを好んだ。当時の馬は体高は四尺が基準だが、四尺七寸もある馬が献上されている。(今のサラブレッドは160センチほどだが、当時の洋馬は150センチ前後。日本の四尺は約121センチ、四尺七寸で約142センチ)

男馬が駒、女馬が駄とよばれる。武士の馬は男馬。女馬は農民の所有だから、農村では女馬の比率が高かった。岩手県全部で明治前期の統計では馬数68483頭、内女馬が48977頭(71.5%)である。

上級武士の身分の象徴だが、馬を維持するのは金がかかり、盛岡藩でも当初は100石以上の規定を、飢饉時に300石以上として、以降はこの基準になった。
時代を経ると、馬医の技術や馬責(調教)の技量も低下したようだ。

西国の農地は乾田が多く、深く掘り起こすための牛耕が必要だったが、東国の農地は湿田が多く、馬を入れにくかったが、新田開発が進み、家族が少なくなると、農馬の需要も増した。多く所有している農家とそうでない農家の差も大きかった。馬糞は肥料にもなる。当時はオオカミに襲われることも多かったようだ。

馬を食べる風習は当初は無かったが、相次ぐ飢饉の中で食べる必要性も生まれた。また馬革の加工も当初は行われなかったように書いている。尾の毛などが鎧などの飾りに使われたともある。

明治になって馬の体格向上が求められると、南部馬は良馬ゆえに、交配が進められ、純血種が早くに絶えた。


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