「女たちの幕末京都」 辻ミチ子 著

幕末に京都で名が知られた女性の生き方を調べ、定説を覆したりしている書である。次のような女性が取り上げられている。知らなかった人物が多く、それなりに面白かった。いつか誰かが小説の主人公にしそうである。

近衛殿老女村岡、島津篤姫、幾嶋、梁川紅蘭、梅田信、梅田千代、村山可寿江、皇女和宮、松尾多勢子、太田垣蓮月、高畠式部、長尾照、楢崎龍、幾松、坂本龍、寺田屋登勢、清寛宮、庭田嗣子、土御門藤子、木戸松子、税所敦子、若江薫子などである。

お姫様から、お付きの女性(今のキャリアウーマンのような人)、学問を学んだ詩人、志士の妻、志士と浮き名を流した芸妓など様々である。

安政の大獄で捕まる前に逝去した梁川星巌の妻が紅蘭で、美濃で生まれ、詩文を学び、星巌と結婚。夫を通じてか、周りからかアヘン戦争の状況なども把握していた。獄につながれても気骨のある態度で終始した。

梅田雲浜の妻は、雲浜の詩「妻は病床に臥し、児は餓えに叫ぶ」で名高いが、雲浜の病床の時に尋ねてきた志士の世話をし、琴を弾いて慰めた。子ども達に読み書きを教え、お針を教えたりした。信は29歳で逝去。後妻が千代で雲浜が逮捕、獄死後、明治になってから京都の女紅場で監督などを務める。

近衛家の老女村岡は近衛家の奥に勤め、近衛家から信頼され、幕府との連絡、折衝などで江戸にも行く。島津篤姫は近衛家の養女として将軍家に嫁いだから、その関係でも尽力する。安政の大獄で逮捕される。水戸への密勅に手を貸したとの疑惑、それも近衛家当主の関与具合を調べる為に逮捕されたわけだ。後世に村岡は何も白状しなかった女丈夫と称されたが、実際は知らないことを知らないと言っただけと考えられる。梅田雲浜などは村岡は物欲が深いとも言っていたようだが、日常的に、儀礼的に贈答が多い世界に生きた為であろう。

一方、井伊が亡くなってからは、井伊の妾で長野主膳とも関係があったとされる村山可寿江が志士に捕まり、生き曝しにされる。彼女は多賀神社の社僧の忘れ形見と伝わる。三味線、華道、茶道を学び、井伊家の下女、下河原の芸妓となり、上流階級と交際し、埋木舎時代の直弼と知り合う。この後、円光寺で尼になり、天誅で犠牲になった人を弔う。

皇女和宮は政略結婚だが、夫婦仲は良かったようだ。この結婚を朝廷側から勧めたとして、志士から四奸両嬪として狙われたのが今城重子、堀河紀子。お付きで従ってお守りしたのが庭田嗣子などで、なかなかしっかりした女性だった。

松尾多勢子とは信濃伊奈郡の豪農の妻で、平田神学を学び、52歳で上京。平田神学の為に尽力し、長州藩士とも交流する。志士の足利将軍の木像梟首事件の時に関与し、岩倉具視の暗殺を阻止したとも言われているが、岩倉の件は違うと著者は説くが、明治の世になり、岩倉家の教育係にもなり85歳で逝去。

大田垣蓮月は勤王歌人として知られている。歌人、陶芸家、書家である。高畠式部も同様に尊王歌人とも称されていた。彼女達は政局の当事者でないから、彼女らなりに深く世の中を見ることができたのであろうと著者は結ぶ。

志士との関係で名を馳せたのが桂小五郎と幾松、坂本龍馬と楢崎龍、多くの志士をかくまった寺田屋登勢である。薩摩の税所敦子は歌道で名高く、明治になってからは英語も学び、天皇、皇后に仕える。

若江薫子は、公家の庶子に生まれ、四書五経を学び、『和解女四書』という教育書も書いている。尊皇攘夷の論客で明治になっても説を曲げなかった女性である。


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