「軍艦奉行木村摂津守 近代海軍誕生の陰の立役者」 土居良三 著

幕末の幕臣木村摂津守喜毅の伝記であり、それが日本の近代海軍を誕生させた歴史でもある。咸臨丸がアメリカに行った時に勝海舟が艦長だが、船酔いでダメ、一方、木村は軍艦奉行として咸臨丸の司令官として遣米副使として、福沢諭吉は非常に高く評価している人物である。

アメリカでも、木村は貴公子として、温厚仁慈として彼の地の人間にも尊敬された。人柄だけでなく、海軍に対する将来構想も持って、その実現に努力した人物だったことが、この本で理解できる。立派な人物である。
この本は当時の史料の引用も多いが、原文のままであり、私のようにざっと読む人間にとっては読みにくい本である。研究する人には価値があると思う。

木村の家は浜御殿の奉行の家柄だった。浜御殿にも薬草園があり、これが木村家の収入にもなり、非常な金持ちの幕臣であった。咸臨丸渡米の時に、私財で3000両もの大金を作って、使っている。この時、公金も多額に持参したが、そちらの方は余らせて、それを国庫に返納している人柄である(邦貨は75.6%、ドルは88.7%を返金)。このような家だから書画骨董の名品も多くあったようで、名刀も所持していた。この本には刀では、兼次と秋広、千手院の名前が出ている。カッテンディーケには関の兼光を贈っている。

木村が交流した幕府の人物として、岩瀬忠震(英才と木村は評す)、永井尚志(初代の長崎海軍伝習所取締)、大久保忠寛(剛直と評す)などがいる。川路聖謨、その弟の井上信濃守清直(忠実な人で、外国奉行も経験し、木村の海軍建設を助ける)、水野忠徳(外国奉行の一人)、肥田浜五郎(軍艦の機関の大家)など幕末の幕府の人材は皆、立派だと思う。

木村は長崎駐在目付になる。そして長崎海軍伝習所の取締になる。勝海舟などもいたわけである。勝海舟は自分の身分が低いこともあり、木村に反抗したこともあるが、後には「木村は温厚で多くの人の意見を聞き、威張ることないので、内紛もおこらなかった」と評している。また木村の方も、勝海舟のことは、それなりに認めていた。
伝習所では身分制度が持ち込まれ、身分の高い人物にオランダ教官が叱責しても、通訳が遠慮して、通じないようなことがあったようだ。この時の教官にカッテンディーケがいる。

咸臨丸の時は通訳に船乗りでもあったジョン万次郎を任命するように尽力したのが木村である。米人のブルックが乗船したが、良い人柄で献身的に日本使節に尽くしてくれた。小野友五郎(後に日本で軍艦を設計、測量も名人)、赤松大三郎(後に海軍、造船協会の会長)なども乗船して経験を積む。

帰国後、木村は軍艦奉行となり、文久の軍制改革を実施する。これが明治の帝国海軍につながる。身分制度を打破して能力主義にする方向も模索している。

維新後は木村芥舟(かいしゅう)と名乗り、隠居する。息子の一人は海軍の軍人となり、もう一人は無線電信を研究して、日露戦争の時に感謝される。
立派な人物である。



この記事へのコメント

清宮 純
2016年02月24日 10:00
おはようございます。初めて知りました。幕末にはこのような素晴らしい人材が沸き上がって来た時代でありますね。それにしても良くこのような本を見いだして読まれたことに驚いております。どうぞこれからも埋もれし書籍の紹介をお願いいたします。誠に勉強不足を痛感いたした次第です。
伊藤三平
2016年02月26日 22:09
『落日の宴』で川路聖謨の事績を書いた吉村昭も「あの時代、日本を植民地化から救ったのは、幕府の老中と川路聖謨たち幕吏なんです。(中略)植民地化の危機を回避させながら日本をうまく明治維新にすべり込ませたのは、ほんとうは幕府であり、優秀で誠実な幕吏たちだったんです」(「日本人にとって”鏡”」より)と書いています。私も一理あると思います。
黙魚
2016年08月24日 12:23
この本は確かに良い本ですが、文中「木村摂津守喜毅が遣米副使」とあるのは誤りで、木村喜毅が副使に任命された公式な文書はありません。「咸臨丸の軍艦奉行木村摂津守喜毅」です。この書の影響を受けて2年前に発行された宗像善樹著「咸臨丸の絆」は誤りを認め、と全国図書館協議会選定図書を辞退しました。参考:http://tozenzi.cside.com/kanrinmaru-byou.htm

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