「物語日本の歴史11 Ⅱ 鎌倉人の哀感」 笠原一男編

何冊か読んでいる物語日本の歴史シリーズの一冊である。義経が没落する時から2度の元寇の戦いまでである。あまり知られていないエピソードが紹介されているかと思ったが、鎌倉時代になると、そもそも資料はないようで目新しいものは少ない。
いくつかの章で『吾妻鏡』が引用されているが、これは幕府の正史であり、北条氏に不都合なことは一切書いていない史料とのことだ。

梶原景時が義経を讒言したように言われているが、頼朝は梶原だけの言葉を信じたわけでないことが記されている。当時、梶原景時が義経の戦奉行、和田義盛が範頼の戦奉行だったとある。
頼朝は肉親よりも御家人を重んじた。これで鎌倉幕府という武家政権が成立したのだと思う。義経だけでなく範頼も、どのように最後を遂げたのかは史料が残っていない。北条に不都合な史実は消されているのだろう。

平宗盛など生き残った捕虜のことや、義経を討ちに行き、捕まった土佐坊昌俊のことが書かれているが、土佐坊はなかなか骨のある男だったようだ。平家物語、吾妻鏡、源平盛衰記、義経記などの引用である。
義経が逃亡していくと、運にも見放され、部下もどんどん減っていくという状況が書かれている。これは義経に限らず敗軍の将の末路であるが。安宅の関の謡曲「勧進帳」も紹介されている。

逃げてきた義経を討った藤原泰衡も、結局は奥州征伐で頼朝に討たれてしまうが、やはり資料が少ないようで書かれている物語は面白くはない。今の言葉で言うと侵略戦争だったわけであり、頼朝軍は相当にひどいことをやったのだと感じる。そして不都合な史実は消してしまう。

狸の後白河法皇が在世中は、頼朝の征夷大将軍は認めなかったようだ。頼朝は後白河法皇から右近衛大将に任じられるが、頼朝もさるもので、受けてすぐに辞任してしまう。後白河の下の役職では政治はしないと言うことだ。前右大将ということで政治をしていく。

頼朝の容貌は「顔が大きく、背が低く、容貌優美にして、言語分明」とある。
二代の頼家は比企家から妻を迎える。蹴鞠が好きで暗愚として、北条の歴史では書かれている。北条家から修善寺に幽閉されて不自然に死ぬ。愚管抄、保暦間記、承久記には湯殿で殺されるとあるようだ。妻の実家の比企能員も北条に滅ぼされる。

弟の三代実朝だが、歌人として名高い。鶴岡八幡宮で公暁に殺されるが、北条義時が裏で糸をひいたようなことも書かれている。

北条政子はそれなりの女性であり、その分嫉妬も強かった。頼朝の愛妾亀前を殺そうと画策する。

北条時政は曾我兄弟の仇討ち時に曾我兄弟に肩入れして、頼朝も殺そうとしたとの話を紹介している。曽我兄弟の祖父の伊東祐親、父の河津祐泰は工藤祐経のせいで、頼朝によって勘気を蒙ったが、祖父は後に許されており、そこまで頼朝を恨むのはおかしいというわけである。時政が曾我五郎の烏帽子親になっている。
時政は頼家が生きている時に、京都に頼家は死んだと伝えている。義経が梶原の言葉で殺された裏にも時政がいるとされる。工藤祐経が頼朝に重用されているのを時政が嫌ったとも言われている。

北条義時、泰時が後鳥羽上皇を承久の乱で破り、幕府をしっかりしたものにする。吾妻鏡や太平記には褒めて書かれている人物である。吾妻鏡は北条の歴史書であり当然だが。
北条時頼は母の松下禅尼の教育が良かったとある。謡曲鉢の木で有名である。この時代に青砥藤綱の話もあるが、歴史上には確認できない人物のようだ。

蒙古襲来の時、文永の役では蒙古軍とそれまでの日本の戦いの勝手が大きく違い苦労する。日本の戦いのように、矢合わせで鏑矢を放っても、名乗りを長々と述べても相手には通じない。一騎打ちではなく蒙古軍は大勢一度に取り付いて馬から引き摺り落として殺すような戦いである。蒙古軍の太鼓、ドラもうるさく馬が驚く。密集部隊が太鼓で進退したようだ。てっぽうも大きな音がして馬も驚く。
この時は、肥後の菊池武房、竹崎季長が活躍する。

弘安の役の時は、事前に石垣を作り防戦する。蒙古の将軍も日本軍の戦意の盛んなことに驚いたようだ。鎌倉武士は勇敢であった。
この戦いは神風が始末をしてくれる。各神社はうちの神様のおかげだと宣伝する。


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