「刀狩りー武器を封印した民衆ー」 藤木久志 著

この本は、以前にも読み、このブログにもアップしている。今回は調べものもあり、再読した。日本には3回の刀狩りがあったとし、第1回めは秀吉による刀狩り、2回目は明治維新後の廃刀令、そして3回目が戦後の進駐軍による刀狩りだ。
刀狩りで武士以外は刀を持てなくなったと思われているが、そうではなく庶民は帯刀に制限が加えられただけで、所持については厳しく詮議されなかったことを明らかにしている。江戸時代初期は、脇差だけは町人も常時指していたが、その長さが制限されるようになり、そして旅行、火事の時以外は帯刀禁止となる。

江戸時代以前は、男が13~15歳前後になって大人になる儀式の時に、子供の名前を変えて大人の名前にする、前髪を剃る、刀脇差を帯びる「刀指しの祝い」があり、刀は武士の魂ではなく、自立した男たちのシンボルだった。それが刀狩り令で制限が加えられるようになり、身分制の象徴となっていったわけだ。このことは、ゲルマン民族もそうであり、今でもアメリカの共和党支持者などに引き継がれ、銃砲の規制に反対している。

自由な男は武器携帯の権利を持つという原則だ。武装権はなによりも名誉権であり、その義務や負担がいかに重くとも、特権として高く評価された。5つあり①平和時の武器携帯の権利、②祖国防衛の権利と義務、③復讐の権利、④決闘権、⑤犯人の追捕権である。
それが12世紀の帝国平和令(ラントの平和令)で農民の武装禁止(労働中)と携帯の禁止(村を離れれば問題ない)、一方で警察への奉仕のため、家に武器を備えておく義務になる。秀吉の刀狩りと同じ発想だ。

江戸時代の紛争でも、相手の脇差を奪うと、非常な侮辱(名誉の侵害)を与えたことになり、村追放となるほどであった。

鉄砲の規制もあるが、江戸時代は農具(害獣の駆逐用)として認められ、特に江戸時代の初期には藩の鉄砲数よりも、農民の中の鉄砲数の方が数が多いという状況もあった。
1645年頃に江戸廻りでみだりに鉄炮を撃つことが禁じられる。この後も使用、所持は規制(免許、登録、鑑札など)されていく。

江戸時代は百姓と領主の間では、いつしか鉄炮不使用の原則が生まれていた。1748年に姫路藩で百姓一揆が広がった時に藩は一揆を威嚇するために鉄炮を使ったと、わざわざ幕府に届けをだす。幕府はこれを咎めて「百姓どもが飛び道具を持っていたのか」と聞いてきて「持っていない」と答えると幕府は「場合によるが、飛び道具を用いるのは無用」と警告している。
だから当時は、武士が鉄炮を使うのには幕府の許可がいると言う認識が広がっていた。百姓側も一揆においては鎌、鍬だけをもつと自制していた。幕末になると逸脱してくるが。

以上のことから、日本民族は武装解除で平和になったのではなく、自律による武器封印で平和を追求したと言える。

1869年に森有礼が廃刀令の原案を出したが、この時は議会の激しい反対が出る。「両刀を帯びるのは皇国尚武の性、自然に発露するところ」、「いやしくも大和魂を有する者、だれか刀を脱する者あるべきや」、「士分以上は、かならず刀を帯べども、農・工・商ともに、かならずしも一刀を禁ぜず、……万世改むべからざるの制なり」、「随意に帯刀を廃せば、工・商を弁識がたし」などの反対意見である。

このように脱刀・廃刀は大きな抵抗を受けたのに対して、散髪はかなり早く広まる。

1875年(明治八)に廃刀令が提案され、翌年に布告。

刀は平成11年の段階で231万本の登録。(占領軍によって消滅したのが300万本、だから約530万本が明治期にあったことになる。

<昔、この本を読んだ時のブログ>http://mirakudokuraku.at.webry.info/200801/article_10.html


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