「天狗争乱」 吉村昭 著

幕末の水戸天狗党の一連の騒動を書いた吉村昭の小説である。水戸藩は水戸光圀の『大日本史』編纂以来、尊皇の伝統があり、徳川斉昭の強いリーダーシップの元、尊皇攘夷の総本山のようになる。井伊直弼の開国を斉昭が批判し、安政の大獄で蟄居させられ、それに反発して桜田門外の変で、水戸浪士が井伊を殺す。こういう伏線があって、幕末の水戸藩は、幕府寄りの門閥派、尊皇攘夷派、それも穏健な鎮派と、過激な激派に分かれて争う。(元々水戸藩は江戸定府として江戸に藩主がいることを命じられた藩であり、江戸藩邸と国元の水戸との反目もあった)

小説は元治元年の日光例幣使を迎える栃木町から始まる。天狗党は激派の藤田小四郎(藤田東湖の子)が水戸藩町奉行田丸稲之衛門を大将にあおいで筑波山で63名で半月前に挙兵していた。そして日光に向かう。少人数での日光参詣は許されるが日光で立て籠もるのは拒否される。
例幣使とはかちあわなかったが、栃木町に入り、献金を強要し、その後、本隊が去った後に、若者中心のザンギリ頭の田中愿蔵(げんぞう)隊が火をつけて焼き尽くし、住民を殺害するという暴挙を働く。天狗党本隊もこの行為に怒るが、これが地域の住民、幕府の反発を買う。田中愿蔵隊は以降は別行動を取るが、後に鎮圧される。

天狗党とは、門閥派が身分の低い尊皇攘夷派が急に鼻を高くして威張るのを皮肉った言葉だが、天狗は義勇に通じるとして自らを天狗派と呼ぶようになる。

京都に出向いた藤田小四郎が長州藩の過激派久坂玄瑞などと脈を通じて攘夷決行を幕府・朝廷に働きかけることを約束する。しかし長州藩が蛤御門の変で失脚する。このため、かえって全国の攘夷派は水戸藩に期待を高め、天狗党にも水戸藩以外の参加がある。

筑波山挙兵、栃木町放火・狼藉後に幕府は水戸藩に取り締まりを強く求める。水戸では門閥派の市川三左衛門は尊皇攘夷派を弾圧する。しかし、水戸藩の江戸藩邸は尊皇攘夷派が強く、支藩の宍戸藩松平頼徳を藩主の名代として水戸に派遣する。しかし、門閥派は、側近に尊皇攘夷派がいることで水戸入城を拒否する。その結果、頼徳勢も天狗党と一緒に門閥派と戦うことになる。結局、松平頼徳は責任を取らせられ、切腹となる。この課程で元家老の武田耕雲斎が天狗党に入り、総裁となる。

この小説を読み、また史実として、天狗党が筑波山、那珂湊、大子町、栃木県大田原、鹿沼、群馬県太田、下仁田、それから信州の望月、下諏訪、伊奈の飯田、馬籠、岐阜県の中津川、揖斐、それから福井県の今庄、新保と大軍で行軍し、諸藩と戦い、勝利していく様子や、多額の寄付金が集まったことに驚く。
武田耕雲斎が統率してから軍律も厳しくなり、住民も戦争は恐れるものの、天狗党の宿泊には寛大となる。ただし幕府は、このような天狗党同情者を後で罰していく。
住民が天狗党に共感を寄せる背景に、全国的な尊皇攘夷の機運が、国学の影響で、農民、町人にまで及んでいたことがある。また幕末の民間の富の蓄積はすごいものだったと認識する。

天狗党は元水戸藩家老の武田耕雲斎を首領にいだき、軍律を厳しくしてから、幕府に追われながら行軍を続け、結局は京都の一橋慶喜に頼ろうとする。慶喜は十五代将軍としても、鳥羽伏見の戦い後に、兵を置き去りにして大阪城から逃げたような男だが、この時も幕府の意におもねて、自分を慕ったてきた天狗党を見捨てる。
慶喜がなんとかしてくれると思って降伏した天狗党は、見捨てられ、若狭のニシン蔵に閉じ込められ、殺される。なお、この時に天狗党に降伏を進め、慶喜との間を何度も周旋した加賀藩の動きを好意的に書いている。

天狗党は諸藩の兵と戦うが、各藩の藩兵は天狗党に勝てない。こういう状況を見ると、長州征伐で幕府軍が負けたのも当然と思える。
戦う藩はまだしも、陰で間道を通ってくれたら、献金する、そして形だけは自藩が天狗党を追い払ったとして銃砲を数発撃って、ことを済ます諸藩の多いことにあきれる。
幕府軍も新式装備の歩兵隊で追うのだが、2日の行程をおいて、後をつけるだけで何もしない。

幕末争乱の前哨戦とみても、面白い小説だった。ちなみに水戸藩はこのような派閥の争いで、人材をつぶし合い、明治になってからもさえない。派閥抗争は近親憎悪的にひどくなり、何も残らないということだ。


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