「宣教師が見た信長の戦国」 高木洋 編・著

戦国時代に日本に来て織田信長に会った宣教師フロイスの2通の手紙を著者が改めて翻訳し、同時に、岐阜城の発掘調査の結果も書いている本である。著者は考古学にも造詣が深いようで、信長の居城だった岐阜城の考古学的な発掘の成果と、フロイスの岐阜城とその城下の描写の記述が一致することに興味を抱いているようだ。

翻訳の中で固有名詞に苦労した話は面白い。例えばケチジュウベオと読める言葉が、明智十兵衛だったり、メアコが都だったり、ウァタインガノカミドノが和田伊賀守殿、タクシャマドノが高山殿、ニキジョシュニが日乗上人、トウシギルウドノが藤吉郎殿などである。なるほど、このようなご苦労があるのだなと認識した。

フロイスの手紙における岐阜城下の様子も興味深い。お城の周りは、信長に仕える武士の屋敷街だったようで静かで整然。フロイスが滞在した町は別の場所にあり、そこは特定の寺の内でもない(今、楽市楽座は寺内で施行されたとの説もあるようだが、その反証になる)ようで、夜になると町の人を集めてデウスの教えを説法している。ただ、信長に仕える武士が総べて城の近くということでもないようだ。

手紙は1569年6月1日と、1569年7月12日の2通である。永禄12年に該当する。翌年が姉川の戦いである。
日蓮宗の日乗上人がキリスト教、宣教師を目の敵にしていることがよくわかる。フロイスは日乗上人のことを「素性下賤で身の丈低く、性質温和のところがほとんどない心神喪失者、悪魔がその邪念を刷り込む道具として見出し得た最も狡猾狡知な人間の一人」とあしざまに書いている。そして彼との宗教論争に勝ったような感じで記しているが、日乗上人も自分の方が勝ったような言い方で朝廷に工作しているようだ。信長もフロイス、日乗の双方を罰していないから決着は付かなかったのであろう。

フロイス及びキリスト教の支援者としては、摂津の和田惟政がしばしば登場する。洗礼を受けていないのだが、フロイスの味方になって信長との交流に便宜を図っている様子がよくわかる。

信長はこの2通の手紙の中ではキリスト教、宣教師に好意的である。手紙の中には当時の距離の単位がレグアとして、しばしば書かれているので調べると、時代と国によって違いがあるが、約5㎞程度のようだ。

この時、信長は37歳で、背が高く、痩せた男で、ヒゲは少く、抑揚をつけた尊大な言い方をするとある。酒は飲まず、人の取扱は過酷、総べての人を服従させていると記す。優れた理解力と明敏な賢明さを持ち、神や仏、預言などを蔑している。そして霊魂の不滅、死後を信じていないと記されている。また、長い前口上などは嫌うともある。

信長が宣教師に対して行っている質問も知性が優れていることを物語っている。

そして、信長が家臣に対して、手で立ち去るように合図を送っただけで、彼らはあたかも猛牛を目の前にしたかのように、大急ぎで互いにぶつかるようにして走りさる。家臣は信長と話すときは両手と顔を地面につけ、顔を上げる者は一人としておらずと、その勢威を記述している。


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