「消された秀吉の真実ー徳川史観を越えて」 山本博文、堀新、曽根勇二 編

以前に読んだ「天下人の一級史料」(山本博文著)の続編のような本である。http://mirakudokuraku.at.webry.info/201005/article_16.html
何人かの研究者が、いくつかの視点で書いているが、この本の副題にある「徳川史観を越えて」と言う内容が妥当かは、私のような一般の歴史愛好家には、よくわからない。ただ、徳川家康が豊臣姓、羽柴姓をもらっていたことなどは、徳川の世になって消したい事実だと思い、なるほどである。

「長久手の戦い」(鴨川達夫)は、4月10日に秀吉が亀井琉球守に宛てた書状(家康が小牧山に陣を据えました。当方はそこから14、15町の距離まで近づき、必ず家康を討ち果たすつもり)を紹介し、この前日4月9日に長久手の戦いで秀吉方が負けている。それなのに、その事実を書いていないところに、秀吉の負け戦の衝撃が見られるという。
この戦いで、秀吉方の兵一万が討ち取られたとの説が流布したようだが、実際は3千くらいだろうと別の史料から推察している。
そして、この戦いは本来は岩崎城(三河の入り口)をめぐる戦いと称されるべきものと述べている。家康が秀吉軍に出し抜かれ、やっと長久手で尻尾をつかまえて逆転勝利をした戦いだったと書いている。

「豊臣政権の大名統制と取次」(光成準治)では、上杉家に対する石田三成、増田長盛の役割を考察している。島津氏においては、島津忠恒に対する石田三成の指南は指導的なものだが、義久や義弘に対しては、そうでもないなどを考察して、取次としての三成の果たした役割はケースバイケースであるとしている。

「刀狩令に見る秀吉法令の特質」(山本博文)では、現存しているこの文書は九州でのものが多い。肥後の一揆の影響だと考えられる。あとは畿内近国の寺社に出している。ただ、このような法令が出ていることを知っている大名が秀吉の意を汲んで自国でも刀狩令を行うような動きはあるとしている。

「秀吉の右筆」(曽根勇二)では石田三成のような奉行人だけでなく、秀吉の朱印状を執筆する右筆の例えば山中長俊、木下吉隆なども奉行人と同様の仕事もしてくることを書いている。

「豊臣秀吉と「豊臣」家康」(堀新)は、家康も羽柴姓、豊臣姓をもらっていたことを明らかにしている。なお、家康は将軍任官のずっと以前永禄、天正の頃にも源姓をつかっていた。これは関東支配において、家康は源氏を使った可能性もある。ただし、天正14年には藤原姓を使っている。だから姓を征夷大将軍に任じてもらうために、変更にしたということではない。

「人掃令を読み直す」(金子拓)では、人掃令は、奥羽仕置きも完了して朝鮮出兵に伴う労働力を確保する為に、武家奉公人の離散禁止を改めて命じるものとの位置づけとして、先人の研究を批判、評価しているが、専門的過ぎてよくわからない。

「秀吉と情報」(佐島顕子)は、朝鮮の役での秀吉と各大名との情報やりとりの日数などを考察している。

「太閤秀吉と関白秀次」(堀越祐一)では秀次の与力の山内一豊が、秀吉に叱責されている文書から、対家康をにらんで東海道筋に置いた大名ゆえの配慮を考察。また秀次の弟で秀長の養子となった秀保が事故で死んだために、秀次の処分もやりやすかったと推測している。秀次の処分で豊臣家臣団が解体され、豊臣家全体の軍事力が弱体化したことなどを書いており、なるほどと思う。秀次改易後に尾張に加増された福島正則などは徳川方についているわけだ。

他に「秀次事件と血判起請文・「掟書」の諸問題」(矢部健太郎)、「秀吉の遺言と「五大老」・「五奉行」」(清水亮)がある。五大老間、五奉行間の離間もあり、相互の縁組みなどを画策しているようだ。


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