「山本周五郎 戦中日記」 山本周五郎 著

山本周五郎の日記は11冊あり、現在は「青べか日記」などとして一部が刊行されている。この日記は山本周五郎の遺族の了解を得て、太平洋戦争開始の1941年12月8日から、終戦の年1945年の2月4日までの日記を刊行したものである。

当時、東京大田区の馬込文士村に居住していた。開戦の時は事実を伝える内容だけだ。昭和17年4月18日のドウリットル爆撃のことが興味深い。これについては吉村昭も見ており、その印象を記しているが、東京の住民にとっては印象深い事件だったようだ。B29と違って低空であり、日本軍は完全に虚をつかれたようだ。周五郎の記述は撃ち落とすことを期待している。

近所の灯火管制などに気を配っている銃後の国民ぶりが戦中らしい。4月30日の翼賛選挙では津久井龍雄(国家主義者)に票を入れている。また戦争報道で、新聞や大本営は危機を煽りすぎるなどとも記している。

昭和18年5月31日、アッツ島玉砕に「哀悼に堪えず、痛憤やる方なし」と記す。これに触発されて「伏見城」を書くとある。読んではいないが関ヶ原の時に徳川の為に籠城、討ち死にした鳥井元忠のことであろうか。

発表される戦果も記されているが、今から見るとウソの報道だが、戦果に喜んでいる。
昭和19年に入ると、空襲の話が多くなる。こんな時に自宅の梅が咲き、その咲き方に梅なりの育ち方を考え、愛でている。
原稿のやりとりに使う郵便の信頼性も薄れてきたことも書かれている。
11月3日にはレイテ島の戦いにおける神風隊一機命中の報道に接し、「あまりに惜しき若桜と心ひき裂くる思なり」と冥福を祈っている。
11月9日にはスターリンの革命記念日の演説で日本を侵略者と断定したことに、日ソ不戦条約の履行に不安を感じている。このあたりから敗戦を感じているようだ。最後までソ連に期待していた上層部だったが、ちゃんと見ている人もいたわけだ。

11月27日は猛爆の様子が書かれている。受け身になっていないでサイパンを叩けと奮起を促している。
このあたりから空襲が日常となる。各地の空襲の様子なども、報道かあるいは知人からの伝聞によって記されている。編集者との付き合いもあり、知人からの情報は他の国民に比して、確度が高いものがあったと推測される。

12月30日には隣家の防空に不熱心な男への憤りも記されている。
昭和20年1月9日には近くで盗難があったことが記されている。日本の民心もすさんできたのであろう。
そして1月19日に出版関係の知人が「軍人たちの悲観論が盛んで、もう出版どころじゃなさそうですよ」と伝えてくる。これに山本周五郎は軍上層部を批判し、日本が実力をあらわすのはこれからだと意気込み、悲観している知人に「必勝の明朗心」を注射したとある。

1月27日は妻きよえが空襲にあった地区へ出向き、その帰宅が遅いのに心配している。
2月1日には敗戦を覚悟したのか「石に齧りついても生きて、正しき日本、万邦無比の日本を再建するため、さいごまで努力しなければならない」と記している。
この日記は2月4日で終了している。

この後、3月の東京大空襲で長男が行方不明になり、5月には妻のきよえがガンで逝去される。そして8月は終戦である。

この頃に「日本婦道記」など、いくつかの作品を執筆して発表している。文筆を糧として、家族の為に小説を書いている様子も綴られている。それにおける悩み(筆が進まないこと、小説は作りものだが、その作り方が足りないのではなどの煩悶)も書かれている。

時々、人はいかに生きるべきかとか自分の死生観(自分自身は恐れないが、家族にはすまないとか、日本人にとって死は祖先の系列に入るだけだなど)が書かれている。

もちろん、時々の家族や身近な人の様子、原稿を取りにきた出版社の女性社員の女ぶり(肉付きのいいからだ、おとなしくしとやか)などにも筆はとぶ。

日記と言えば、永井荷風の日記「断腸亭日乗」が面白いという人が多く、一度は読もうかと思うが、あまりい気は進まない。山田風太郎にも戦中の日記があると聞いた。



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