「占いと中世人」 菅原正子 著

副題に「政治・学問・合戦」とあるが、日本の中世に政治や合戦において使われた占いについて史料を整理したものである。私は足利学校について関心があって読み始めたが、その部分は少なく、もっと幅広く、陰陽道や占いのことを調べている。
著者が言うように、中世にあっては占いに頼ることは大きかった。今でも政治家、経済人で占いに頼っている人がいるのが現実である。天変地異に関する天文的知識、地震・噴火などの知識は現代と中世は比べようもないほどに違うが、中世人にとっては天変地異があるたびに、それは占うべきことだったのだ。

朝廷の占いは神祇官と陰陽寮の官人が行う。神祇官は白川王家、大中臣氏、卜部氏(後に吉田家と平野家)などが担当した。平安・鎌倉期は、朝廷の陰陽師は賀茂氏、安倍氏のことが多い。当時は他にも大中臣氏、伴氏、惟宗氏、秦氏がいたが平安末から鎌倉時代は安倍氏(天文)、賀茂(暦)氏で約70%を占める。後に安倍氏は土御門家、賀茂氏は勘解由小路家となる。
亀卜(亀の甲の割れなどから占う)などを実施。陰陽寮は占筮や地相占いを行う。また暦、天文、漏刻(時間をはかる)なども業務の一つであった。

名高い陰陽師の安倍晴明は10世紀後半に活躍し、藤原道長に頼りにされる。

朝廷だけでなく、鎌倉幕府の源頼朝、実朝も陰陽師を使う。占いの結果は当たったこともあるし、外れたこともあったようだ。当たったことの方が記録には残りやすい。

公家の日記(『(山科)教言卿記』)などに行事の日にち、事件の真相解明、年中行事としての祓え、暦に関することを陰陽師に依頼している様子が書かれている。そして具体的な占いの様子が書かれている。

永仁の徳政令(1297)は借金棒引きの徳政令だが、彗星の出現によって出されたようだ。

室町幕府の足利義満は1回の祈祷に百貫文(当時の京都の相場は一貫文=米一石=米三~四俵)を支払っていた記録が残っている。

足利学校は易占いで有名になるが、創設時のことは不明だが、鎌倉時代初期に足利義兼が創建したとも伝わる。元々は儒学の学校で病院も付属していたようだ。室町時代中期に関東管領上杉憲実が「学規三箇条」を定めたことが知られている。当時は儒学の中でも古注(中国の古い注釈)を使用していたようだ。当時の五山では新注(明時代の注)が使われていた。
第七世の校長の九華(大隅の伊集院氏で1578年79才没)は易学を講義していた。
第九世の校長の三要(肥前の出身)は豊臣秀次に仕え、後に徳川家康に仕える。京都の円光寺を開創する。

武田信玄は自分でも占いをしたようで、占いを信じて戦いなどに出向いている。山本勘助は気象からの占いを行ったようだ。

島津家も帰化人:江夏友賢に占いを依頼して、戦いに出向いている。


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