『街道をゆく』(司馬遼太郎著)から高野山、吉野山と熊野、大和の道

高野山、吉野山に行ったから、司馬遼太郎の『街道をゆく』の中から、関係のあるところを読む。『司馬遼太郎全集49』に含まれている。

「高野山みち」は九度山の真田庵からはじめている。関ヶ原後、大坂の陣まで真田昌幸・幸村(信繁)父子が配流されていたところである。正しくは善名称院という高野山の末寺だそうで、紀ノ川と丹生川があり、集落には一つの入り口しかなく要害の地のようだ。紀ノ川の船着き場でもあったようだ。
近くに高野山領の行政をやっていた政所と呼ばれていた慈尊院(女人禁制の為に空海の母もここで住む)があり、ここから山に登る高野街道西口が昔はあったようだ。

それから司馬遼太郎は高野聖のことを書いていく。旅をしながら寄進を乞う私度僧で悪人も多かったようだ。高野山には学侶方(官僧の候補)、行人方(いわば僧兵)、聖方の三つの機能があり、互いに仲が悪かったようだ。高野聖が諸国を廻って、いわゆる空海伝説を生み出した面もあるようだ。

それから真言の邪法真言密教立川流(男女間の性交を重視)のことに筆が転じる。後醍醐天皇も文観を通して信仰した。こういうのはインドの影響なのだろうか。

それから高野山の真別所(本寺周辺の草庵の集落化したところ)に出向き、往古、この地にいた重源(東大寺大仏殿再建の勧進をした僧)と、道心堅固な聖のグループに話題を転じ、そこに生えている沙羅双樹(夏椿)を紹介しながらインド仏教が日本に根付いた過程に思いをはせている。

「大和丹生川(西吉野)街道」は下市から丹生川沿いに十日市、西吉野の道を紀行したものである。山、山と渓谷が川という地形が連なる。川沿いに山を削って人家を建てるような集落の様子が描かれている。

土地に伝わる民話(魅入られる話)、昔の水道施設(水は綺麗)のブンズイの話、それから十日市は字の通りに、この辺の商業中心地、川の合流地点であることが書かれる。ともかく川が大切な交通手段であることがわかる。

昔の街道は山の中腹を通っていたこと、古い民家の間取り、材木、庭の様子などが書かれている。林業は昔も今もこの地方の大切な産業であることも書いている。

「熊野・古座街道」では、この地にあった若衆宿のことを考察し、これは南方風俗であり、鹿児島では、この文化(若衆は長のもとで、一つの発言権があった)が薩摩での私学校と西南戦争につながり、土佐では天保庄屋同盟(平等主義が強い庄屋間の結束。後に土佐の自由民権運動につながる)、さらには昭和の軍部の青年将校に対峙する姿勢に影響していると考察する。

古座川は今でもきれいな川であるが、ダムが出来る前はもっときれいで、特有のエビも捕れたが、今はダムで水温も下がったせいか絶滅したことを記している。
この川沿いは岩の絶景があるようだ。せせらぎの音も、本当はこういう音だと感銘する箇所もあり、聞いてみたいものだ。

「大和・壺坂みち」は奈良の橿原から高取、壺坂寺の道である。橿原の今井は戦国時代に堺の豪商今井宗久が出た町で今井千軒と呼ばれる町があったそうで、今でも面影があるようだ。近くに高松塚古墳もあるとのこと。

そして高取については江戸期、この地を治めた高取藩植村家(2万5千石)の先祖のことを語り、高取城が峻険な地にあって、建物は無いものの風情がある堅固な石垣が残っている様子を書いている。


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