「戦国合戦15のウラ物語」 河合敦 著

著者は高校の歴史教諭であるがTVにもよく出ており、その語り口と同様に、本も読みやすい。次の戦国武将、合戦を取り上げている。高評価で「冴えわたる智謀」として、小早川隆景、白井入道、前田利長、低評価で「情けなき愚将」として、石田三成、荒木村重、「生き残りをかけた
策謀」として志賀親次、毛利輝元、福島正則、九鬼嘉隆・守隆、この他、「意外な敗戦秘話」として三方原の戦い、小田原攻め、関ヶ原の戦い、「戦国合戦の奇手奇策」として松山城モグラ作戦、三木城干殺し作戦、鳥取城渇殺し作戦を取り上げている。

白井入道とは千葉県佐倉市にある白井城(印旛沼の畔の台地)にいた軍師白井入道浄三(胤治)-当時の城主は原胤貞-のことである。永禄9年3月に小人数で上杉謙信の攻撃に耐え、隙をついて上杉本陣に錐のように猛攻を加え、城の城壁をわざと崩れるようにして上杉軍を圧死させたりして5000人を死傷させて、破ると言う。その後、豊臣家の軍師白井竜伯になったという説もあるが、不明のようだ。

三方原の戦いの頃の家康軍団は家康の言うことを聞かず、統制が取りにくい家臣団であったことを書いていて、面白い。確かに息子信康の謀反を信長に肯定したり、三河一向一揆で一揆側についたりと、そういう面もある。

小田原攻めは、最後は秀吉が騙して(命を助け、本領の一部を安堵)、開城させたという面はある。
関ヶ原の戦いは当初、三成が籠もった大垣城だが、この時は大雨となり、水が出て大垣城が孤立するおそれが出る。そうなると連絡が取りにくくなり、城から出て、関ヶ原に出向いたとあるが、なるほどとも思う。

松山城とは武州(埼玉県比企郡吉見町)にあり、この要地を北条氏康、上杉謙信が争う。当初は北条の城だったが、上杉方の太田三楽斎資正(太田道灌のひ孫)が永禄4年に奪う。そして部下を城主にしていたが、北条軍が攻めてくると、彼は日本ではじめての軍用犬の情報連絡で、すぐに後詰めをして、守ったようだ。永禄5年の冬の時期(上杉が来られない時)に北条が攻めるが落ちない。この過程で援軍の武田軍が坑道をほって攻撃した。最後は偽の使者に騙されて開城するが、太田三楽斎は、この後も佐竹の客将となって北条と戦う。
この娘が忍城における石田三成の攻めを、女性ながら城主としてしのいだ成田氏の妻である。
関東の戦国史はあまり知られていないが、興味深い逸話がある。

荒木村重については、家族・部下を見捨てて自分が逃げた為に、一族が殺されるが、その残虐な殺され方(磔、串刺しなど)が克明に書かれており、たまらない。ここまで具体的に残酷さを書いた本は少ない。

志賀親次とは大友氏の一族で、他の武将が島津の猛攻に耐えかねて寝返る中で、岡城(荒城の月のモデル)に籠もり、最後まで大友に忠誠を尽くし、薩摩軍を何度か破った武将である。豊臣秀吉にも高く評価され、大友氏滅亡後も豊臣直臣となり、その後も福島正則、小早川秀秋、肥後の細川氏に重用されている。

毛利輝元は関ヶ原の時は大坂城にいて動かず、敗軍の将となったが、この後の大坂冬の陣、夏の陣に変な動きをしていたことを書いている。前田利長にしても、九鬼水軍の嘉隆、守隆親子にしてもそうだが、当時はどちらが勝つかはわからず、双方に保険をかけ、戦後の家の安泰をはかったことは、この通りだろう。徳川の時代になって不都合な歴史は、各家で抹殺され、書き換えられることになる。


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