「幕臣たちの明治維新」 安藤優一郎 著

慶応4年閏4月に維新政府は、徳川宗家の相続人の田安亀之助(後の徳川家達)に、居城や領地は追って沙汰すると申し渡す。実際は静岡県で70万石は決まっていたが、彰義隊などが江戸にはいたから刺激的なことは伝えなかった。そして5月に彰義隊を滅亡させ、10日後に徳川家達に通達。そして8月に家達らは駿府城に入る。

この時、幕府には旗本が6000人、御家人が26000人で合計3万2千人の家来がいた。しかし70万石が雇える藩士は約5千人。残りはリストラが必要になる。
そこで①新政府に帰順して朝臣となる、②徳川家を離れて農業や商業をはじめる、③無禄覚悟で静岡に移住という3つの道が提示される。

上級旗本を中心に5千人くらいが①の道を選ぶ。ただし元幕臣や江戸の市民は軽蔑した。
②の道で多いのは汁粉屋、団子屋、炭薪屋に古道具屋。武士のプライドで顔はほおかぶりで、売る態度は横柄か、逆に馬鹿丁寧だった。士族の商法を大半が失敗。
明治4年には静岡藩は13764人もの藩士を抱えることになる。

江戸から静岡への旅は、船底に詰め込まれたりして悲惨。静岡でも三千石以上は五人扶持、千石以上は四人扶持、五百石以上は三人扶持、百石以上は二人半扶持、二十俵以上は二人扶持、以下は一人半扶持とわずかなものになった。

江戸時代でも低い身分の幕臣は内職したり、家屋の土地を貸したりして暮らしていた。

御徒士であった山本政恒が書いた自分史「政恒一代記」を紹介しながら書いていく。幕末の時の話もあり、桜田門外の変の時の様子、彰義隊の話などは興味深い。山本は維新後、静岡に移住。その後、浜松、熊谷、群馬の役人になる。

静岡での徳川家の静岡学問所、沼津兵学校などは水準も高かったことが書かれている。

具体的な幕府の人材として、教育界では福沢諭吉、江原素六、経済界では渋沢栄一、ジャーナリズムでは柳川春三、成島柳北、栗本鋤雲などがいる。ジャーナリストは反政府の論陣をはる。
静岡では中条金之助、明楽鋭三郎などが茶を植え、静岡の名産が生まれてくる。牧畜、製塩業などはうまくいかなかった。

「政恒一代記」以外の史料としては、水戸藩士の末裔山川菊栄の「幕末の水戸藩」「おんな二代の記」を引用して当時の空気を書いている。東京でうさぎの飼育が流行ったことなどもあるようだ。西南戦争では東京人は西郷を応援し、東北の諸藩は討伐に向かう。

明治22年に東京開市三百年祭で江戸ブームのようなことがある。この頃、江戸会、八朔会などの旧幕臣の組織ができる。他に同方会、碧血会、旧交会、葵会なども生まれている。

それほど面白い本ではなかった。


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