「戦国時代 武器・防具・戦術百科」 トマス・D・コンラン 著

アメリカ人の研究者が著した武士の装束(鎧・兜・武具)と武士の戦術についての本である。分厚い本だが図も多い。ヨーロッパ中世との対比や、「散兵」という概念で騎馬武者以外を取り上げ、また別に「槍兵」も取り上げている。「火器」「大砲」の項も興味深い。外国人が書いた本ということがわかる。翻訳者の名前は一切出ず、監修者に小和田哲男氏が出ているから、著者が日本語で書いたのだろう。独特の日本語であるが読みにくくはない。

はじめに、1336年頃の武士は現実的(味方が討たれ、手負いも多くなれば逃げる)なのに、戦いがない時代の1717年の葉隠には「武士道と言うは死ぬこととみつけたり」と観念的になることを記している。
侍は昔は領地を持つ武士の属人を差す言葉で、それが江戸期になると、武士は領地から切り離されて皆が侍になると書く。

1467年(応仁の乱)以前は兵が組織化された陣形で戦うことはなく、指揮や統制とは無縁だったと書く。確かに蒙古襲来の時などの日本兵はそうである。兵が分散している時に大事なのは弓矢であり、歩兵が戦況を左右するためには組織化された陣形と訓練が必要になる。それは15世紀の応仁の乱以降であり、こうなると効果が発揮できるようになる。そして、この時に安上がりな武器は槍となる。そして鉄砲が16世紀の半ばに持ち込まれる。

鎌倉幕府は、まず裁判を行う政府。総じて公正な判決が下る。1232年の貞永式目は英国が1215年に制定したマグナカルタより広く社会の様々な範囲をカバーした。
当時は馬に乗れる武士が社会のエリートであった。それには御家人と名主(畿内、西国に多く、鎌倉政権から認められていないが御家人と同等と思っていた)があった。

日本馬は去勢などの技術がなかったから戦いの最中に馬が暴れるような混乱も生じた。最も大きい馬でも体高は140㎝で大半は130㎝程度。蹄も蹄鉄は無かった。戦闘用の武者をのせたら時速9㎞以上では走れなかった。その分、弓を正確に射ることができた。馬具で足から下は防護できた。当時の鎧は高価で、最も良い鎧は簡素な鎧の4倍、刀の8倍の価格と北条貞顕の書状にある。

弓は物語の中では436㍍超えの射程もあるが、現在の和弓は385㍍。13~14㍍で甲冑を射貫く力がある。14世紀中の戦いの負傷は73%が投射。大半は矢。刀傷は25%、槍は2%。
14世紀は大太刀と薙刀。槍は長さ1.5㍍と短い。木か竹に短刀を差したようなもの。

散兵とは、騎馬武者と徒武者の弓矢隊。軽装の胴丸、あるいは腹巻を身につける。深い藪に身を潜め、水田や山地の戦場から、騎馬武者に矢を射るのが仕事。木製の楯を使う。
14世紀の城は50~60人程度が入れるもの。山城は水が大事。丘の頂上で見渡せたために、物資の補給もやりやすく防衛しやすい。

槍が力を発揮するのは白兵戦で多人数が槍を持って戦う時。槍の壁を騎馬武者では破れない。こうした軍は十分な資金と野戦での補給物資、そして訓練(要は組織力と兵站力)が大事。14世紀の白兵戦での刀傷は全体の92%、1467年以降は20%。槍傷は14世紀が2%だったが、1467~1600にかけては80%になる。

武将についてのコメントもあり、足利尊氏は恩賞を上手に与えられる武将。義満は管領は畠山、細川、斯波の3管領を、その下の四識は山名、赤松など4氏を対抗させて統治。このため一族内の争いが多くなるなど、それなりに面白い。武将について独特の評価もしており興味深い。畠山弥三郎なる武将を高く評価している。応仁の乱の前に河内、紀伊で槍兵をはじめて効果的に使用した武将ということらしい。

マスケット銃は射程100㍍だが、50㍍以上は不正確。ライフル・マスケット(19世紀にヨーロッパ)になると射程は1000㍍を超える。日本では素早く撃つよりも正確に撃つが重視。

大砲はポルトガルがいいものを作り、当初は大友宗麟が1560年頃に輸入。1570年に織田信長が国友鍛冶に製作を命じたという記述もある。徳川幕府が大砲の技術を独占して広がらないようにした。大砲製作にあたって、日本の銅はたいへんに評価が高かった。1620年にはマカオが大砲製造の中心地など、幅広く記してある。

ある分野に絞って精読すると、また興味深く読める本と感じる。

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