「戦国大名と読書」 小和田哲男 著

変わった視点の本であり、戦国大名がどのような本を読んでいたかについて書いている。その前段として、当時の教育機関である寺、特に禅寺の僧について記している。当時の教育機関は寺しかなかったという面と、子供が多い場合に家督争いを防ぐために僧にすること、また一族で僧になるものがいれば「一子出家すれば九族天に生ず」として、救われるという面があったことを述べている。

今川義元は五男で建仁寺で僧となり、その教育係が太原崇孚(雪斎)であった。のちに軍師として迎えられ、徳川家康も教える。
上杉謙信を育てたのは天室光育である。上杉景勝と直江兼続は北高全祝が師である。
伊達政宗は虎哉宗乙である。政宗は隻眼でありコンプレックスがあったのを、禅では優れた者を「獨眼龍」として讃える例があること、『十八史略』に五代後唐の始祖李克用が黒の軍団を率いて敵を畏怖させたことから「獨眼龍」と呼ばれたことを教え、政宗は後に黒の具足で固めた軍団を率いていた。

毛利元就の家臣玉木吉保の自伝『身自鏡』に「庭訓往来」、「貞永式目」、「論語」、「四書五経(大学、中庸、論語、孟子の四書と易経、詩経、書経、春秋、礼記)」、それに「和漢朗詠集」、「古今集」、「万葉集」、「伊勢物語」、「源氏の一部」、「八代集」などを学んでいることを記してある。このような書が当時の教材だったと考えられる。

「庭訓往来」は12ヶ月の各月ごとに、各形式の書状(挨拶、お礼、依頼など)を書いたものであり、書簡を通じて世事を学べるものである。
「実語教」、「童子教」という教科書もある。「実語教」には「山高きが故に貴からず、樹あるを以て尊しとする」とか、今でもよく使われる熟語が49ほどある。これは今でも通じる格言である。
「童子教」も164項目があり、「口は禍の門、舌は是、禍の根」などよく知られた格言が含まれている。

また「武経七書」と呼ばれる「孫子」、「呉子」、「尉繚子」、「司馬法」、「六韜」、「三略」、「李衛公問対」も読まれた。兵法書であるがリーダー論でもある。

北条早雲は孫子の兵法を利用し、相手の力を知ることに留意している。毛利元就は知将とよばれるほどに策略が多い人だが、呉子の兵法を利用している。武田信玄の風林火山も孫子に由来する。黒田官兵衛も孫子の兵法で城を囲む時は一箇所を開けておくなどを応用している。

徳川家康は実は本を大切にした人で、足利学校の伏見の学舎とも言える円光寺で慶長4年から貞観政要や武経七書などを出版させている。

易学は大切にされていて、易経は五経の筆頭だった。それは足利学校が最大の教育機関であった。易をおさめた卒業生が戦国大名に抱えられた。家康も閑室元佶(天正14年に足利学校の庠主=校長)を信頼し、関ヶ原の戦いの時にも占っている。

戦国武将に読まれた中国の書籍(史記、漢書、後漢書)は、戦国武将の家訓などに取り入れられている。武田信繁の家訓99箇条にも取り入れられている。

直江兼続は中国の詩文集の「古文真宝」、その注釈書の「古文真宝後集抄」を写している。直江は当時の読書人としても知られ、徳川家康も関ヶ原後に書籍を問い合わせたりしている。藤原惺窩にも家康、兼続ともに接触している。家康は藤原惺窩から貞観政要(唐の太祖の政治状の言葉)の講義を受けている。

武将は「平家物語」、「太平記」(毛利家、北条早雲、薩摩の上井覚兼)も読み、家康は「源平盛衰記」を愛読した。また「源氏物語」や「伊勢物語」も読んでおり、これらの知識が連歌の時に役に立つ。明智光秀の愛宕百韻も源氏物語が引用しているという。
漢詩を作った武将もいて、その為に勉強も必要だった。武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、直江兼続などの漢詩が知られている。



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