「武者(ムサ)の世の生と死」 樋口州男 著

『愚管抄』が保元の乱(1156)から「ムサノ世」の到来とみなしたが、この本は、保元の乱から後醍醐天皇の死までの、戦いにおける武士の生き様、その婦人等の生き様を書いた本である。歴史書でもあるし、文学書でもあるような感じである。

保元の乱、平治の乱は、天皇、院の意志が強く、それを寵愛と受け取る一方がいれば、他方はおもしろくないとなり、別の権威を立てたり、寵愛を受けているのを引きずりおろそうとするというような争いから始まる。保元・平治の乱は、貴族社会の権力闘争も、武力を利用することになり、その結果、武士が自分達の力を再認識して、武士の世を作っていくことになる。

政争、戦乱の中で、政敵にやや酷い仕打ちをすると、その恨みが残って祟るという意識は当時の人には常にあったようだ。天竜寺も足利尊氏が後醍醐天皇の鎮魂の為に建立したようだ。

文学的要素が入る本と紹介したが、西行のことが書かれている。西行法師は武士から法師になった歌人だが、崇徳上皇とかなり密接なつながりがあったようだ。家人をしていた徳大寺家、その当主の妹の待賢門院璋子、その子が崇徳上皇というつながりで、西行の身分違いの恋の相手が待賢門院璋子ではないかという説もあるようだ。

『平家物語』には民衆への同情はないと書く。一方、平家の興亡に、当時の民衆が持っている長者伝説(貧者→神仏の加護→栄華→滅亡)が反映されていると説く。

当時の女性は、生き残って、菩提を弔うという役割もあった。

当時の都の人には義経に好意的な評が多い。『玉葉』『吾妻鏡』『義経記』などは好意的とある。『平家物語』は義経が普通の武士らしくないこと(奇襲とか)を書く。

承久の乱で負け、隠岐に流される後鳥羽院は刀剣も鍛えたように多芸多才で、早くから倒幕の意志があったとする説もあるが実朝の死で公武融和から対決に進んだのではないか。

モンゴル襲来は、博多の前に対馬などの島の悲劇がある。北条家は時宗の異母兄の時輔と名越一族を討つという内憂もあった。文永の役の時は、モンゴル軍の銅鑼の音で馬が驚いたり苦戦する。勇ましい鎌倉武士が知られているが、戦闘に参加しない御家人もいたようだ。この時は太陽暦の11月26日であり、台風シーズンではない。信頼できる資料にも大風は無いようだ。自発的な撤収だったようだ。その撤収の中で大風が吹いたとか、いくつかの説があるようだ。矢弾が尽きたという説もある。

弘安の役の時は、所領田1反につき、1寸の割合で石築地を築いた。これで防衛している内に大風が吹く。社寺はこのことを喧伝して日本は神国思想が広まる。

鎌倉幕府滅亡の時、幕府方の将士は負けるといさぎよく切腹している壮絶な様子が知られているが、中には島津四郎のように敵に寝返るのもいた。

楠木正成は『太平記』『梅松論』(足利方から書いている本だが)ともに好意的に書かれている。

武家の棟梁は足利尊氏。弟の足利直義が全国の統治(政務)の総括者。所領を与えるのは尊氏、訴訟は直義という役割分担だったが、そこに尊氏の執事高師直が加わり、直義と争いになる。師直は『太平記』では悪役だが、当時としては教養のある武将との評もある。直義が文治派=法治主義、師直が武断派=実力主義で対立だが、師直は尊氏に代わって汚れ仕事をしたとも考えられる。




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この記事へのコメント

勢陽学芸
2014年11月28日 22:41
伊藤様 大変ご無沙汰しております。いつもブログ拝見しております。今回ご紹介いただいた著者は私の高校時代の恩師です。今の私があるのも樋口先生のおかげと感謝しております。著書はいくつか拝見しておりますが、今回の書籍もぜひ拝読したく思います。つい懐かしく思いコメントしました。失礼ご容赦ください。
伊藤三平
2014年11月30日 09:27
そうですか。ちょっと不思議な本であり、こういう先生の授業は、歴史上の事件が変わった視点で深堀りされて、なかなか興味深かったのではと思います。

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