「牢人たちの戦国時代」 渡邊大門 著

歴史学者の本であり、『大坂落城 戦国終焉の舞台』(http://mirakudokuraku.at.webry.info/201302/article_12.html)を以前に読んだことがあるが、内容はそれとも関連している。

敗戦によって主君を亡くした武士が牢人であり、それは源平争乱期からある。ただし、敗者の、しかも無名の武士の話であり、史料が少ないわけだ。『源平盛衰記』に信濃の武将:笠原頼直の名乗りとして「昔は信濃国住人 今は牢人の笠原平五郎頼直というものである。」と記されている。
それから鎌倉期の牢人として畠山重忠の遺児を盛り立てる牢人、南北朝期では若狭の一色氏の牢人のことが記され、室町時代には嘉吉の乱を起こし、滅ぼされた赤松家の牢人にページを割いている。戦国時代になると、合戦が多くなり、方々で牢人が発生する。有名なのは尼子牢人の山中鹿介幸盛である。

牢人は倒産した会社の社員と同じである。牢人も力を付ければ牢人とは言われなくなり(中小企業の起業)、また実力があれば、それなりに仕官できた(大久保長安、小幡勘兵衛景憲、島左近清興、山本勘助など)である。塾を開いた牢人(仙石秀範など)もあったようだ。

関ヶ原の戦いは大量の牢人を発生させ(大名では長宗我部盛親、真田昌幸・信繁父子、後に大名に復活した立花宗茂、八丈島の話が悲しい宇喜多秀家など)、その牢人の多くが大坂冬の陣、夏の陣で豊臣方に加わり殺される。その中には主君と合わずに退転した牢人(後藤又兵衛)、親の言うことを聞かなかった細川興秋などもいた。
大坂の陣の時は、大坂方の武士は寄せ集めの牢人が多く、軍規、士気の点で問題もあった。

宮本武蔵のことが面白い。福田正秀氏の説として、武蔵は関ヶ原の時に黒田家に新免家の者として仕え、「百石 新目武二」として父の無二斎が記されている。黒田官兵衛と大友吉統が戦った石垣原合戦で武蔵が参加しているという史料もあるようだ。島原の乱では55歳だが、小笠原長次の出陣名簿に「拾九人 宮本武蔵」とあるそうだ。この戦いでは、石に当たって、足が立たないという無念な状況だったと言う武蔵の書状も残っている。

キリシタンの牢人も多い。それは禁教令で特に仕官が難しいからだ。大坂の陣では明石掃部の下で籠城し、島原の乱でも戦う。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック