「宗教で読む戦国時代」 神田千里 著

興味深く読んだ本である。キリスト教の宣教師が日本に来た時代であり、宣教師が本国に報告を上げており、当時の日本の宗教事情がわかる。
当時、京都では各宗派の説法が盛んに行われていた。文字の読めない信徒はこれで教義の知識を有していた。だから、日本の宗教や信仰に関する知識を持たない宣教師の説教には軽蔑して耳を貸さなかった。その分、宣教師も知的武装をして説教する必要があった。

当時、キリスト教の話を聞いた聴聞者は、仏教とキリスト教は同じではないかと思ったようだ。三位一体にして一つ=これは阿弥陀如来のことではないか、12人の使徒を持ち福音書という4人の年代記作者によるキリスト像とは、釈迦(十大弟子)のことではないかと思い浮かべたようだ。祇園祭り=キリストの聖体祭、お盆は万霊節、寺院=修道院、尼寺=修道女の修道院という具合だ。

こういう状況だから、キリストの宣教師は、日本では悪魔がこのような話を偽造したと本国に伝えていたようだ。

以上のように、日本は知的レベルが高く、仏教も発展していたから、キリスト教宣教師にとって、宗論は大変だった。
禅宗は、死ねば何も残らず、霊魂の不滅などはなく、来世の賞罰もないという立場。次のような質問も手強かったようだ。
①絶対唯一神の存在→デウスの存在が真実であるならば、かくも遅れて日本人に伝えたのであれば、現在まで何処にその善良さが隠されていたのか。
②人間に永遠不滅の霊魂→人間の死に際して、動物の場合と同じように霊魂など目撃されない。どのようにして霊魂は、肉体の外に分離して持続し、生きたままでいるものの何らかの兆候を彼らに示すのか。不滅の霊魂を持つ人間と、持たない動物が死ぬ時に何ら違いがないではないか。霊魂はどうなるのか。不滅のまま持続しているというが、一体どうして、そんなことがわかるのか。
③人間には動物に無い理解力、自由意志、記憶力に、見解・意見をもつ判断力があり、これが不滅の霊魂の証というが、禅僧は、これだって人間の肉体と離れたものではないだろう。人間も肉体が衰え、老化していけば、おのずと判断力や意志の力も衰弱していく。
④神が人類に増殖し、繁栄することを命じているのなら、何故、その命令に背いて、宣教師たちは禁欲と節制の人生を立派なものと考えているのか。
⑤神が、かくも慈悲深いのであれば、なぜ罪を犯さないように人間を創造しなかったのか

以上のように、今でも宣教師をやりこめられそうな内容である。

日本中世の仏教にあっては、宗派の違いは大した意味はなく、本質的には同じものという見方は鎌倉時代からあり、戦国時代に続いている。要は、仏法への信仰に入る道は一つではない、悟りを開く因縁は多い。その一つがそれぞれの宗教。「分け登る、麓の道は多けれど、同じ雲井の月を眺むる」ということだ。

一向一揆で名高い一向宗も、現在のような末法の時代は阿弥陀仏へのみ帰依せよと言う教え。一方で、他の神仏を崇める人を批判したり、非難してはならないとも説いている。では一緒に信仰しても良いかというと、蓮如は、それは良くない。なぜならば「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえず」と同じで、一心不乱に阿弥陀を信仰しなければ成就などしないと説いたわけだ。

当時の日本の宗教は、内面ではそれぞれが信じる仏法を深く信じ、外では儒教の道徳「仁義礼智信」の五常を守る=天道思想ということだった。神仏習合も広まっていた。日本の各宗教は葬祭へ密接に関わっていた。

この天道=宣教師はデウスと同じとみたが、具体的には、儒教の道徳、神仏を敬い、正直、公正、誠実、上下関係への配慮(上を敬い、下に慈悲の心)などである。信長でさえも、天道を非常に大切にしていた。

当時、日本を観察した宣教師は、各地の領主を国王、そして足利将軍を皇帝(名のみの存在の神聖ローマ帝国)、天皇を教皇とみていた(比叡山の天台座主も教皇)。この見方は19世紀のはじめのゴローニンも同様で、徳川将軍を世俗の皇帝、天皇を信仰上の皇帝と呼んでいるようだ。

1565年に全国でわずか1万人の日本のキリシタンは禁教令の出された1614年には37万人に達している。それは以上のように、当時の日本人の宗教感に違和感がなかったからである。加えて宣教師の方が、当時の日本の腐敗坊主よりも良かったからではなかろうか。

しかし、キリスト教が一番排他的であった時代に、日本に伝わったことが、後の排斥につながる。16世紀にルターらの宗教改革。フランスでは16世紀後半にユグノー戦争。17世紀はドイツを舞台に30年戦争と本国の方でも互いに排他的だった。
秀吉も、徳川家も他を排撃するところを強く嫌う。「自宗を広めるのはいいが、他宗を攻撃するのはダメ(自讃毀他)」と言うことで、江戸時代には日蓮宗の不受不施派も弾圧される。
要は、為政者は、宗教の教義に反対するのではなく、他宗への攻撃的姿勢を嫌い、それを邪法と呼び、禁教したわけだ。

島原の乱は宗教一揆といえる。飢饉と過酷な年貢徴収の中で、キリシタンに「立ち帰り」を行うような宗教運動がおこる。乱に参加した者は、信仰していると鉄砲の弾は通さないと思っていた。

次に一向宗である。これも調べると、一向一揆は宗教一揆ではない。一向宗が対立したのは真宗の内部の高田派、仏光寺派である。比叡山との争いも、宗派同士の私闘。加賀の一向一揆は守護の富樫家の内紛に高田派と本願寺派が争う。加賀における教団の政治的立場を選択する戦い。

石山合戦も大名勢力の抗争に門徒を動員して戦った。本願寺は江戸時代も東本願寺と西本願寺で抗争する。政治的抗争であり、仏法上の抗争ではない。

教団に属すると、交通なども保証されるメリットがあった。アジール(治外法権的機能)の機能もあり、敗戦した武士、借金返済を迫れれる庶民、主人からの解放を望む下人、夫との離縁を望む妻の避難所になる。宗門改めの証人にもなってくれる。
統一政権は寺院の守護不入を否定したと言われるが、実務上では寺をたてて裁いている。

もちろん、宗教に、雨乞い、などの現世利益も民衆は求めていた。九州では、一向宗は山伏、祝、陰陽師なども一類と見なされていた。それで禁止という面もあったようだ。

法華宗(日蓮宗)のことは、この本で触れてないのは残念だが、かように、参考になる本であった。文章は読みやすいが、内容はそれなりであり、読みやすい本ではない。


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