「戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯」 小和田哲男 著

歴史学者小和田氏の著作である。この3姉妹が生まれた浅井氏の系図は、亮政→久政→長政の戦国三代以外は信用できない系図。亮政の時代に、守護は京極高清だったが、老臣の上坂家信に操られていた。浅井亮政などの国人クラスの領主はそれに不満を持っていた。高清の跡目の件で、上坂に対して、浅井などは浅見貞則を盟主に反乱する。しかし、今度は盟主にした浅見の専横が目立ち、浅井亮政らが反乱する。次の久政が近江の国人らの争いの調停に力を尽くし、戦国大名化していく。しかし、外交では南近江の六角氏に対して弱腰であり、家臣らが不満を持ち、浅井長政(当時は賢政)が久政を隠居させる。

お市の長政への輿入れは永禄7年としてきたが、史料を調べていくと、永禄10年9月15日までは織田と浅井の交渉はなかった。だから永禄11年4月下旬だと考える。
お市は信長の妹ではなく、従兄弟の織田興康の娘という説もあるが、わからない。また生まれた年を天文16年にしているが、確証は無く、長政と結婚した歳が22歳は当時からすると遅い。年齢が事実なら再婚の可能性もある。

茶々の誕生も永禄12年ではなかろうか。2女初は永禄13年(元亀元年)と考えたい。三女のお江は天正元年に生まれる。

浅井は3代にわたって朝倉と同盟関係にあり、また久政の信長嫌いもあって、朝倉攻めの時に謀反をおこす。その後、浅井氏は竹中半兵衛に家臣を調略され、姉川の戦いで滅ぶ。

落城するが、三姉妹は助けられる。当時、「男の子は男のもの、女の子は女のもの」という考え方があった。浅井の男子は長男は殺されるが、もう一人喜八郎がいた。
お市と三姉妹は織田信包に預けられ伊勢上野城で過ごす。本能寺の変後に清洲城に移る。信孝の説得で柴田勝家にお市は嫁ぐ。

北庄城落城時にお市が城に残ったのは、荒木村重事件以降に、女性の扱いが変化して、落城時に殺されるようになったという背景があるとの説もある。

この後、3姉妹は秀吉の側室の京極龍子(松の丸殿)(従兄弟同士となる)に預けられた可能性がある。

お江は天正12年に佐治一成に12歳で嫁ぐ。佐治は大野城主で5万石くらいで、水軍を持っていた。織田信雄が提案してきて、その信雄への懐柔策として婚儀を認めた可能性がある。

初は天正15年に18歳で京極高次に嫁ぐ。後に常高院となって大坂の陣では大坂方の使者として働く。

淀君という名称は悪意のあるもので、淀殿、淀の方、淀の女房が正しい。小和田氏は淀殿は、おとなしく、従順な女性と書く。淀殿は最初に秀吉の子、鶴松を生んだ時に高野山で父母の供養を行っている。鶴松の死と朝鮮出兵は関係がなく、朝鮮のことはもっと前から計画されていた。また、淀殿は秀頼が生まれた時は両親の供養に養源院を建立している。養源院は、後にお江も援助している。

昔の奥の制度を考えると、淀殿の不倫説などはないと思う。秀吉も長浜時代に側室に子を産ませ、伝承では女の子も生まれており、子種が無かったということはない。

お江は2度目の結婚の相手として羽柴秀勝(秀次の弟)と文禄元年に嫁ぐ。しかし、秀勝は結婚して直ぐに朝鮮の役で病死する。文禄4年に3度目の結婚として徳川秀忠と結婚する。

豊臣家滅亡は、事態の正確な認識を淀殿に伝える人がいれば違ったと思われる。(転封の受け入れなど)


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