「日本の歴史7 走る悪党、蜂起する土民」 安田次郎 著 小学館

室町時代の足軽の出で立ちや戦争の方法を調べる為に読みはじめたが、すべてを通読した。

鎌倉末期から南北朝期に出現した悪党は、社会をゆるがし、時代を大きく動かした勢力である。農村の領主や、金融や商業、流通や交通に携わる存在であり、個々の荘園、公領の範囲を超えて、また国と国との境にもとらわれずに広く活動するから、もともと上からの統制や支配に取り込みにくい者たちであった。元寇の時の弘安8年に興福寺は大和一国を対象に悪党の摘発のための落書起請を命じる文書が残っている。

中世前期の合戦は一騎打ちが主流で、鎌倉末期から南北朝で集団戦が一般的になるというのは認識が間違っていた。平良文と源充の一騎打ち(良文が提案して、一騎打ち。馬上の両者が一定の距離で向かい合う。馬を走らせ接近し、矢を放つ。これを繰り返す)が有名だが、このような名乗りと氏文読みが付く一騎打ちだけではなかった。
実際は率いてきた兵の全員が戦う。相手が少数であれば取り囲んで雨降るように矢を射かける。中世前期は弓射戦が主要戦闘。(騎馬弓射戦)

南北朝でも一騎打ちがあったが、秋山光政という身長7尺で、八角の3㍍ほどの樫の木の棒に太くたくましい馬に乗って一騎打ちを挑む。挑戦を受けて立ったのは阿保忠実で、4尺6寸の大太刀で馬に乗る。お互いに3度馬を寄せて打ち合う。そのうち、阿保の太刀が折れたので、高師直が矢を7、8人に射かけさせる。これを阿保がとめるという美談が伝わっている。(騎馬斬撃戦)

足軽には2種類あり、一つは騎兵を一時的に馬から下ろして足軽にして、山岳戦などで使う方法である。もう一つは雑兵としての足軽である。野伏(=地域の住民)は落ち武者狩りなどに出る。

鎌倉時代の守護は、謀反や殺人などの重罪の取り締まりと犯罪人の処断。国内御家人の軍事指揮だけ。やがて裁判の結果を現地に取り次ぎ、それの実現をはかること、国によっては国衙の行政を担当するようになる。足利の初期は有能な人物を守護にしたが、応永以降に守護は世襲となる。なお、国人は将軍の直結する御家人として、守護の強大化に抵抗。守護への反旗が国人一揆。

村は村で、名主だけで運営される村ではなく、一人前の百姓がすべて参加する惣村ができる。寄り合いで定めた掟をもつ。年貢・公事の村請で自立。村有財産、村独自の課役賦課、自力救済。村人は弓矢の扱いにも習熟。こういう村人が落ち武者狩りなどで出動する。野伏とも呼ばれる。

一揆の指導者などは大名らの被官が多い。だから土一揆は純粋の農民闘争ではない。

応仁の乱がそうだが、将軍家も含めて有力な諸家の家督争い(足利、斯波、朝倉、畠山、越智など)が戦乱の元になっていることがわかる。南北朝も天皇家の争いが大本である。

応仁の乱では足軽が主流。「身に甲を着けず、戈を持たない。ただ一剣を持って敵軍に突入する」「各々長矛・強弓を持ち…中略…頭にはある者は金の冑をかぶり、またある者は筍の皮でつくった笠をかぶっていた」などと記される。奇計、奇襲に長けて逃げることを恥としないとも書かれている。
土一揆と応仁の乱の関係をみると、土一揆は応仁の乱の時はほとんど沈静化。乱の終息とともにふたたび盛んとなる。だから、同じ主体が乱の主役であることがわかる。

応仁の乱の時は、京都の貴族が地方に逃げる。特に奈良には多く逃げてきて、奈良で京文化が華やかに展開した。乱後に各地方の文化も栄えたのも、京から戻った守護などによる。

婆娑羅は史料上では否定的な文脈で使われる。過差(かさ=ぜいたく)、他に無礼、放逸、僭越、傍若無人、異様、派手という意味。千種忠顕、土岐頼遠、高師直、佐々木道誉などが代表的人物。田楽を好むが、当時の田楽は豪華絢爛で音も騒々しいもの。連歌(相互に平等、無礼講、自由狼藉)も盛んとなり、茶寄合は賭けの対象でもあった。

飢饉も多い。天永の飢饉(1111)、長承・保延の飢饉(1134~60)、治承・養和の飢饉(1180~82)、寛喜の飢饉(1230~32)、元徳の飢饉(1330)、応永の飢饉(1420~21)、寛正の飢饉(1459~61)、弘治の飢饉(1557~60)とある。


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