「女たちの会津戦争」 星亮一 著

この本は2006年7月に発行されたものであり、今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」を意識したものではない。この本では、この戦いにおける会津女性(武家の女性のこと)の優れていることを書いているのだが、当時の会津藩のことも参考になった。

当時の会津藩は「会津に家老無し」という状況で、江戸家老の横山主税が没してからは、見識、統率力のある家老がおらず、それが戦争被害を拡大させた要素が大きいと書いてある。
具体的には西郷頼母は、家柄が藩祖保科正之につながり、養子としてきた松平容保のことを軽んじ、また性格的にも人の話を聴かず、身分意識が強く、藩士の中には刺客を出してもという動きもあったようだ。
京都守護職を受けるなという主張は結果的には正解だったが、当時の幕府の中での藩の立場もある。そして、会津戦争時は白河口に主力をひきいて参陣したが、鳥羽伏見の戦いの経験も無いから、備えが悪く、惨敗する。これは松平容保の人事の失敗とされている。

西郷邸の一族全員の自刃という悲劇は有名だが、藩主への当てつけと見られる余地もあったようだ。

女性の手記の中にも「日本一同から攻められては仕方がない」との記述もあり、当時の会津の外交の拙劣さを暗に批判する内容もあるとのことだ。太平洋戦争時の日本にも似てる面もあり、日本人の一つのメンタリティなのかとも悲しくなる。

美濃の郡上藩を脱藩して会津を助けにきた凌霜隊士が記している手記に、外から見た会津藩の実態が書かれており、参考になるようだ。女性の強さには心底驚いたようで「この藩の女性は天晴れ」とか「まさに勇婦」とかの言葉がある。一方で、家老の萱野権兵衛は城ではなく、外にいる。これはつまはじきにされていたからであろうとか、男はだらしなく「不忠者あり、200石、300石ぐらいの家来、この有様を見て山中に逃げのびたるもの200余人、かようの者を人面獣心というべきなり」と強く批判している箇所もある。

佐川官兵衛も勇敢な司令官だが、酒を飲んで容保の前で寝たり、機を逸して攻撃に失敗してゲリラ戦にまわったりと、批判する元藩士の証言も記されている。槍をとったら日本一の軍勢も、鉄砲、それも新式銃の前では意味のないことだった。時代錯誤の人物だったのだろう。

婦女子には覚悟の自刃のほかに、急に攻め込まれ、城の門が閉まり、やむをえずに自刃した家族も多いとある。これは藩の失政の一つであろう。

藩主の義姉の照姫も優れた人物だったようで、籠城戦において城中の女性を統括し、負傷者にも声をかけて慕われた。戦後、責任を取って自刃した家老萱野権兵衛にも惜別の歌を送っている。

「八重の桜」の主人公である八重は、弟三郎の着物を着て、両刀をたばさみ、元込め7連発の銃を持って籠城して戦う。この戦いの最中、容保に敵の銃砲のことで答えたりして、感心されている。

有名な会津婦女隊は照姫様警護の手はずが狂い、戦うことになり、涙橋の戦いで中野竹子は額を打ち抜かれて即死。中野姉妹は美人で有名だったようで、妹は姉の首級を斬る。

多くの女性たちの手記が残っているようだが、自分の肉親が殺されたところなどの本当に悲惨なところは書かれていないものも多いようだ。

戦後も大変だったようで、郊外に逃れても敵の追っ手がくるし、住民にも官軍から触れがでており、また住民も必ずしも同情的ではなかったようだ。外国人医師のウィリアム・ウィリスの記録に百姓一揆が起こったことも記されている。この背景に、会津藩は京都守護職などで費用がかさみ、それを農民からの年貢で絞りとっていたことがある。「会津藩政の過酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた」とある。また会津軍のひどさも「会津の徒党の残酷物語もいろいろと耳にした。長岡で彼らはミカド側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにしたと聞いた。」ミカドもちろんウィリスは官軍のひどさにも言及している。「ミカドの軍隊は会津の捕虜に対して憐憫の情がなかった」「ミカドの軍隊は各地で略奪し、百姓の道具まで盗んだという話を聞いた」と書いている。

ウィリスも会津の婦人のことを褒めている。「その包囲攻撃を受けた者の中の日本婦人の勇敢な精力的な働きについてかずかずのもの語りが伝えられている」

官軍とは名ばかりで、家中の家からめぼしい金品をぶんどり、女と見れば拉致する女分取り隊だと記されている。

今、中国と韓国との間で、戦争中のことで批判、言い訳合戦をやっているが、戦争という中では、お互いに非道なことをするわけであり、一局面を捉えてのコメントは意味がないと思う。こういうのが戦争の実態なのだ。私だって、あなただって、戦争の局面にぶち込まれたら、今の常識では非道なこともしてしまうのだ。それが戦争。

会津の女性には、この後、青森の斗南藩での苦労が待っている。

明治になって山川捨松(山川咲子)がアメリカに渡り、後に大山巌の後妻となる。当然だが、賊軍の将に嫁するわけであり、批判も多かったようだ。
若松賤子は松川家の娘でフェリス女学院の教授となり、「女学雑誌」を創刊してクリスチャンとなる。「小公子」を翻訳した。
同志社の新島襄の妻となった山本八重子もそうだが、明治の時代の女子教育の点でも会津女性の果たした役割は大きい。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック