「雲藩刀工 高橋聾司長信の研究」 安部吉弘 著

幕末の新々刀作者の高橋長信について、ちょっと調べものがあり、最近、再読した。
著者の安部氏は、地元の愛好家として研究を続けられて、この本としてまとめられたわけで、ご立派な著作である。

高橋長信は文化14年(1817)9月18日出雲郡三分市村(現簸川郡斐川町大字三分市)に農民・瀬崎平助、キヨの次男として生まれる。このように月日までわかるのは、安部氏が壬申戸籍を見つけ出して判明したことである。
出雲藩の藩工高橋冬廣に入門したのは文政12年の13歳の時とされている、6代冬廣の養子となる。なお6代も5代の養子で作品は非常に少ない。師匠は5代冬廣ではなかろうかと推測されている。松江藩の史料をあたったり、古老の話をまとめたりして、長信の生涯を追っていく。

天保9年(1838)4月15日に、22歳の彼は江戸に出て加藤長運斎綱俊の門人となる。この経緯もはっきりしないが、江戸修業は大変なことであり、当時の武家目利きで『掌中古刀銘鑑』の著者でもある松江藩の新宮小源太智明や、その主君である藩主の弟君などの関与も想像している。

年紀は天保12年2月紀からあることから独立はこの年と考えられる。独立するまでに約2年半修業である。ちなみに年紀作は明治4年8月紀まで現存している。

安部氏の熱心な調査でも、まだわからないこともある。
ひとつは由緒ある冬廣家を継いだにもかかわらず長信を名乗ったいきさつは不明である。冬廣銘は天保末年から嘉永5年にかけて、一時的ある。

松江に弘化4年8月頃から嘉永3年暮れか4年はじめまで一時的に帰国するが、江戸での住まいに関して、当時の江戸の切り絵図から探し出している熱心さには脱帽する。

長信も切れ味にこだわった刀工であり、山田浅右衛門家の截断銘も多い。山田浅右衛門とは池坊挿花でも親交があったと伝わる。また松江藩士の石原佐傳次や彼の門弟の荒試しにもあっている。耳が聞こえなくなった理由も、この荒試しに懊悩した為とも言われている。聾の原因には当時江戸で多かった性病説もある。
近世では、日支事変において長信で機関銃を斬ったとかで人気になる。

元治元年に藩が、長州藩対策をとると、松江に帰国し、以降は松江で鍛刀する。
明治以降、家族、門人のことも、この本は調査している。

なお、長信について、島根の鹿島町立歴史民俗館が「斬る 幕末の名工 高橋長信」という資料をまとめており、これも読んだが、内容は安部氏の『雲藩刀工 高橋聾司長信の研究』に負っているにもかかわらず、巻末の参考文献に、この書名を挙げていない非常識な資料であり、どうかと思う。

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この記事へのコメント

2013年04月29日 10:37
うちの父の本を紹介いただき恐縮です。本人も喜んでおります。
越後刀好
2014年09月10日 16:19
安部先生には出雲の刀工さんの件でご指導をいただいたことがあります。私もこの本を欲しくて探していたのですが、やっと手に入りました。限定500冊ですね。大切に読んでみたいと思います。安部先生の研究に脱帽です。刀剣関係の研究書は最近ほとんど発行されないようですね。先生お元気でお過ごしください。

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