「広重の富士」 赤坂治績 著

歌川広重には、富士山を描いた浮世絵が当然にある。この本は、それら全部を様々な視点から紹介し、あわせて葛飾北斎の、かの有名な「富嶽三十六景」とも比較考察しながら書いている。雑学的知識も持っている著者で、その中で教えられることもある。引用している浮世絵は摺りと保存の良いものである。

広重は、いくつかのシリーズの中で、富士山を描いているが、富士山だけを画いたシリーズは最晩年の「富士三十六景」である。この理由として、それまでは北斎の「富嶽三十六景」を増刷していたが、そろそろ版木がダメになってきたことと、当時の富士講(宗教の一種で富士登山信仰で江戸で流行る)が、この時期(庚申の年)にふたたび流行する兆しがあり、版元がそれを見越したと書いている。一理あると思う。

富士講は月心派と月行派に分かれており、月行派は伊勢の小林善太郎(のちに伊藤伊兵衛、法名が食行)が、享保の飢饉の時に民衆を救おうとして、財産を投げ出し、富士山で断食・入定をする。食行は身禄とも名乗ったが、以降、この派が主流となる。この弟子が元文元年(1736)に講をつくったのが富士講のはじまりと言う。幕府は禁令をたびたび出すが、文化・文政期から幕末にかけて、富士講の数は八百八講とも言われる。北斎の「富嶽三十六景」は天保2年(1831)から刊行されはじめている。

浮世絵は庶民が望むものを描いたわけであり、男は遊郭の美女、女は歌舞伎の役者であり、この2つのテーマが大半である。
また江戸後期には旅行ブームがおこる。これも伊勢参りや富士、大山登山の信仰にからめたものである。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は享和2年(1802)年の発刊である。

そして、広重が保永堂から「東海道五十三次」を出版したのは天保4年(1833)である。北斎の「富嶽三十六景」と同じ時期である。

広重の風景画の特色を先人の評も借りて書いて居るが、次のようになる。「詠嘆的」「感傷的」「詩的世界」「自然と人事とをしっとりと調和」。あるいいは「抒情的」「温厚」、あるいは「四季を映す」「時代を映す」「ハレの場を画く」「先人の構図の応用」「大胆なトリミング」などである。
構図の特色としては、近像拡大型の遠近感描写、鳥瞰型構図、俯瞰型構図も多い。

北斎も広重も船来の色素原料(ベロ藍=ベルリン・藍=プルシャン・ブルー)を使っているが、北斎のは濃紺、広重は薄い青を主体としているというのも確かにその通りである。広重は、この水色を使用した水の景色が多く、また水があれば鳥も多いということで、これも絵に多いとある。

北斎は「剛」「荒」「動」「強く硬く」「奇抜な意匠」「誇張が激しい」に対して、広重は「柔」「和」「静」「軟らかく静か」「写実的」などと対比する先人の比較評も参考に掲示してある。

世界で一番知られている絵は「モナリザ」と北斎の「神奈川沖波裏」というのも書いているが、「ビッグ・ウェーブ」とも評されるあの絵は凄い。

雑学的知識の中では、次のようなことを知る。

江戸の万歳は三河などからくるが、2人一組で、鼓の伴奏は才蔵と言って、それは江戸で雇うことが多く、日本橋近くの才蔵市で撰び、それらは総州出身者が多かった。

木更津は上総の物資を江戸を運ぶ集積地になっていた。




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