「幕府歩兵隊」 野口武彦 著

幕府歩兵隊とは、幕末に幕府が作ったもので、長州奇兵隊のようなものである。安政3年に講武所ができて軍事教練をやるが、旗本は特に鉄砲を持つのは足軽だとして嫌がる。そこで旗本知行地等から17歳~45歳の農家の次男、三男の強壮な者を出させる。しかしなかなか集まらず、江戸市中のごろつき的な人間も集めざるをえなかった。

文久3年には4箇所の屯所で定員は6381名。給料は1カ年10両以下としたが、これでは集まらず20両、25両となる。

元治元年の筑波山における天狗党の乱平定に参戦。第2次長州征伐、鳥羽伏見の戦いと参戦し、慶応4年(1868)に幕府瓦解後は、大鳥圭介、古屋作久左衛門、土方歳三などをリーダーとする脱走兵が各地で転戦し、むしろ幕府瓦解後の方が活躍する。

薩長は、文久3年(1863)の薩英戦争、長州藩の攘夷と翌年の4カ国艦隊との戦いに負けて、銃砲の近代化をはかる。それが功を奏して、第二次長州征伐では4300挺のミニエー銃を武備した長州が勝つ。

この時、芸州口の先鋒の井伊の赤備え4000人は、山上から一斉に銃撃を受け、たちまち崩れ、兜、鎧を脱いで、大砲も放置して逃げまどい、400人ほどが戦死。彦根藩は510挺の銃だが、和銃408挺、洋銃65挺、不明37挺だった。同様に榊原家も崩壊したが、ここはゲベール銃が218挺。徳川先鋒の名誉の藩が、水鳥の羽音で敗走した平家と同様の見苦しきことと酷評される。

この頃、世界は銃砲が、以下のような戦争を経て、進化していた。クリミア戦争(1853~1856)、南北戦争(1861~1865)、普墺戦争(1866)と続き、旧式銃砲はマーケットにあふれ、それが日本に流入してきた。和式火縄銃は論外だが、次のように進化する。

ゲベ-ル銃(前装滑腔式)…重量が4㎏、三八式と同じ目方。楽ではない
円形の弾丸を銃口からいれる。点火は雷管式で有効射程は200㍍、命中率は100ヤード91㍍で74.5%、200ヤードで41.5%、300ヤードで16%、400ヤードで4.5%

ミニエー銃(施条式)…ミニエー銃でも3.8㎏
椎の実型の弾丸で、銃腔に螺旋状の溝だから回転が加わり、最大射程は800㍍、命中率は100ヤード91㍍で94.5%式、200ヤードで80%、300ヤードで55%、400ヤードで52.5%

この頃、世界の銃砲は、滑腔式から施条式(ライフル)かではなく、前装式(口込式)から後装式(元込式)かになっていた。そして戊申戦争ではシャープス銃、スナイダー銃の後装銃やスペンサー連発銃や、越後長岡藩のガットリング砲(機関銃の前身)も登場する。

鳥羽伏見の戦いでは、銃器の違いが勝敗を分けたと言われるが、幕府歩兵隊に関する限りは、そのようなことはない。
敗因は銃器ではなく、首脳部の戦略(一本の鳥羽伏見街道だけで攻め上る)、指揮官の能力(京都にいけると思ったのに予想外の拒否で準備不足)、優秀な現場指揮官の不足(各部隊が思い思いの行動)で負ける。薩摩の大山弥助の大砲も効果的。会津兵は負傷すると、すぐに切腹したそうだ(実際、負傷すると助からないのが当時の医療水準だった)。

脱走して戦ったのは、幕府への忠義、忠誠心ではなく、歩兵隊から抜ければ食えなくなるという失業問題と、兵士としての職業意識=職人根性と指摘している。


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