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zoom RSS 「江戸絵画の非常識 近世絵画の定説をくつがえす」安村敏信 著

<<   作成日時 : 2018/02/14 16:37   >>

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タイトルのように、現在、江戸絵画で常識とされている通説に疑問を呈している本であり、今後の研究に大事な視点を提供している。

「宗達の「風神雷神図屏風」は晩年に描かれた」とされているが、これは山根有三の論を基礎としている。それに対して山川武は寛永年間より前の元和の後半ではと推論。著者は法橋を貰う前の署名であること、養源院の作と似ていることを根拠にし、山川説を支持し、法橋叙任の時期を資料から推測し直している。

「光琳は宗達を乗り越えようとして琳派を大成した」の項では、光琳は職人であり、注文されての作が原則。光琳は燕子花図屏風で、型紙を使用して燕子花の群れを反復し、金地の上に青と緑(宗達は多色)を厚塗りした。工芸的手法による絵画への挑戦である。この作品には宗達のたらし込みの技法は使っていない。また墨絵でも光琳は線を復活(宗達は没骨風)している。だから宗達作品を模写したのは晩年である。

「江戸狩野派は粉本主義で疲弊し、探幽・常信以降は見るべきものがない」の項では、探幽の軽妙洒脱な墨の妙技以降、狩野派の作品は劣るとされている。橋本雅邦は臨模の教育は運筆の妙を学ぶに有効と評価している。粉本なくして流派形成はできない。北斎の北斎漫画も全国向けの粉本といえる。探幽の弟の安信は『画道要訣』で学画と質画を区別して、才能はなくても勉学によって画技を獲得する学画重視を書く。ただ安信は真に大切なのは心画としている。後代の狩野派の画家もそれなりに革新している。

「応挙が出て京都画壇は一変した」は上田秋成の文であるが、『平安人物志』で、明和5年(1768)に応挙は画家の2番目。首位は大西酔月。そして応挙、若冲、池大雅、与謝蕪村と続く。まだ一変させたほどではない。安永4年版(1775)では20人の画家が登録され、応挙の弟子が3人。天明2年(1782)でも応挙の弟子は5人。
文化10年(1813)版では73名中20が円山派。四条派4、原派3である。ただ写生というキーワードで観ると、一変したといえる。だから、おのおのの写生観を求めていったということだ。

「長崎に渡来した沈南蘋は三都に強い影響を与えた」の項では沈南蘋が長崎に来て、その画風をI亭が京阪に広め、黒川亀玉(1732〜56)は江戸に広め、宋紫石(1715〜86)一派の沈南蘋派を生んだとされている。著者は上方の画家はそんな影響を受けていないと考える。江戸だけに大きな影響を与えたとする。狩野派の型にはまった花鳥人物画に飽きていた大名の内何人かは沈南蘋派の写生に夢中となる。あと建部凌岱、諸葛監(1717〜90)である。宋紫石の弟子に蠣崎波響、酒井抱一、司馬江漢が出た。

「秋田蘭画は秋田で描かれた」の項では、長崎派もそうだが、流派名に一地方の名を冠してしまうと、その地方で起こった歴史事象かと思い込まれやすい。そして中央の研究者は地元に踏み込んでの調査にためらいを覚える。
従来は平賀源内が阿仁銅山にいく途中、小田野直武の屏風を角館で観て、招き寄せ、彼に鏡餅の絵を画かせ、源内はこれでは盆か輪かわからないと難じて、洋画の陰影法を教えたと伝わる。
直武は江戸に出て数ヶ月後に解体新書の絵を画いている。直武は安永2〜4まで江戸詰め。そこで源内の手伝いをする。そこで蘭書や絵画を源内から学ぶ。佐竹曙山に会ったという記録はないが、ともかく江戸で描かれたのだろう。

「封建社会の江戸では閨秀画家の活躍の場は少なかった」では天保7年の『江戸現在 公益諸家人名録』という文化人の名鑑には女性が16人いる。文久元年版では12人いる。池大雅の妻玉瀾、北斎の娘応為もいると実証している。

「上方で大成した南画は谷文晁によって江戸に広められた」の項では、文晁の絵は北宋画を主体として南宋画や洋風を折衷した諸派混合なのだが、南画とされていると述べる。
南画…南宋画、江南の平坦な地、丸みnある山や柔らかな皴法を特色→文人(素人画家)
北画…北宋画、華北地方の荒々しい山。岩山や堅い皴法→御用絵師(職業画家)
日本では祇園南海(1676〜1751)服部南郭、柳沢淇園、百川。次いで池大雅、与謝蕪村が描く。
文晁は次ぎの時代である。また作風から寛政文晁(北宋画)と烏文晁(点描法だがやはり北宋風)に別れるが、やはり北宋画で、弟子は沈南蘋派となる。

「浮世絵は江戸庶民の芸術、浮世絵師も庶民」の項では、菱川師宣に高位の武士の位牌に安藤夫人絵位牌として婦人画像を書いたものがある。宮川長春、勝川春章も大名からの注文がある。鳥文斎栄之は旗本500石の長男、水野廬朝も1450石の武士。歌川広重もそう。天童藩から肉筆浮世絵を100福頼まれていると実証している。

「浮世絵→錦絵は版画が主流」の項では、岩佐又兵衛、菱川師宣に肉筆がある。懐月堂安度、宮川長春も肉筆であるとする。ただし春信には肉筆がない。

「奇想派があった」の項は、辻が本で取り上げた以外に、池大雅、浦上玉堂、岡田米山人を出していたが、自分は水戸の林十江(南画)。加藤信清(仏画)、土佐の絵金、河鍋暁斎、片山楊谷、中村芳中、禅僧の白隠、佐竹蓬平、祇園井特なども、奇想の画家と思う。因習の殻を打ち破った画家と言える。

「増上寺の「五〇〇羅漢図」100幅は狩野一信によって描かれた」では、本名は逸見一信で狩野を名乗ったかは不明とする。そして一信の作は80幅で、以下は一信の校閲無しの作品で劣るとする。弟子の中でましなのは一純。
なお逸見一信は江戸の骨董商の家に生まれ、何人かに学んだ後に狩野直信にまなび一信。その後、狩野素川に入門している。神田白銀町の逸見舎人の娘の女婿となる。柴田背真とも親交がある。

「油絵は明治になって描かれた」では、平賀源内を嚆矢として、司馬江漢(1747〜1818)がエゴマで油絵。亜欧堂田善(1748〜1822)、安田雷洲がいる。
そして日本画材で西洋画を描いた石川大波(1762〜1817)は旗本で、この弟も描いている。大久保一丘もそうだが、遠州西尾藩士である。

最後に「将来の美術史へ向けての基礎的事実」として、著者が注目する画家の資料をまとめている。

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