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zoom RSS 「モンゴル襲来の衝撃」佐伯弘次 著

<<   作成日時 : 2017/09/30 13:31   >>

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この著者は歴史家だが、考古学・地質学・地形学・地理学・日本史などの分野の研究者との交流の成果も織り込んで、この本を執筆している。そのため、元寇の主戦場である博多の成り立ちのことや、博多を拠点とする日宋貿易、日元貿易のことが出土品の状況も踏まえて説明されている。元寇のことより当時の貿易のことがよくわかる本である。
なお、本では文献史料とは別の『蒙古襲来絵誌』と「新安沈没船からの引き揚げ物」などについても詳しく紹介している。

9世紀頃に太宰府鴻臚館(筑紫館)が貿易施設だった。ここに唐、新羅、さらに呉越国や宋の商人がきて貿易をする。京の朝廷の唐物使(からものつかい)という役人が、宮廷の必需品を買い上げ、その後に民間貿易。のちは太宰府が貿易を監督。この跡から越州窯青磁がたくさん出土している。

太宰府鴻臚館は1047年に焼失して再建されなかった。博多の方の遺跡では11世紀半ばから爆発的に遺構・遺物が増える。
博多には11世紀末には多くの宋人が居住していて太宰府の有力者と深いつながりをもっていた。
この宋人は博多綱首(ごうしゅ)と呼ばれる。鎌倉時代中期の博多綱首張興・張英は筥崎宮の社領の領主となっていた。宗像神社の大宮司の妻も王氏。張光安も資料によくでてくる博多綱首。謝国明は南宋の杭州の出身。博多承天寺を建立した。

当時の貿易は博多以外に、越前の敦賀(渤海との交流)、薩摩、平戸でも行われた。茨城の波アでも博多と同様の宋船の碇石が見つかる。

日本の輸出品は金、材木など。輸入品は銭や陶磁器など、オウム、水牛も来た例がある。銭は大量に輸入され、宋は一時規制する。新安沈没船には800万枚(八000貫)以上の銭。

さて元寇だが、フビライの当初の国書の内容の写しが伝わるが、それほど高圧的ではない。付属の高麗の国書も文面は丁寧。
朝廷では院が徳政を行い、所領を神社に返すなどして、異国征伐を祈願。鎌倉幕府は国書を朝廷にまわし、西国の御家人に用心の触れ。時宗に権力集中。

再度、日本に使節を派遣したり、対馬人2人をとらえて帰国し、その返還に来たりしていた。高麗は三別抄の反乱があり、三別抄側からも書がくる。
幕府は一貫して返事をしない姿勢。北条家は禅宗を深く信仰し、禅僧からの情報も入る。無学祖元はモンゴル兵に殺されそうになった者である。

日蓮は『立正安国論』の中で「他国侵逼」と「自界叛逆の難」を説く。

1273年12月に高麗は兵糧・戦艦の準備を行う。
1274年10月に遠征(文永の役)。史料によってまちまちだが、屯田軍・女真軍・水軍からなる元軍が2万人。高麗軍が6000人が、10月6日に対馬、10月14日に壱岐を蹂躙する。
壱岐は牛の産地で有名な地で、その牛は牛車用だが、元軍はすべての牛を殺して食べ、その印象も後世に怖ろしいとして残る。

元軍は、予定の撤退(矢が整わず、混成軍で軍議が一致しない)で、撤退途中に大風により被害を受けたというのが、今の大勢の説。

その後、日本側からの異国征伐計画も立案されるが、実施されない。弘安の役後にもある。

元は1276年に南宋を亡ぼす。泉州、高麗などに戦艦の建造を命じる。弘安4年(1281)の5月3日に東路軍4万人、900艘が高麗を出発。5月21日に対馬。6月6日に志賀島、日本側は船を出して立ち向かうが元の大船からの石弓で苦戦。戦闘は6月13日まで続く。長門も攻撃されるが、撃退する。壱岐の蒙古を日本が攻撃したこともある。

江南軍は総勢10万、戦艦3500艘。7月に五島から平戸にかけて集まる。東路軍と合流。7月27日に鷹島に移る。日本軍が攻撃。7月30日夜から閏7月1日に台風(神風)。10万人のうち6〜7万人を失う。高麗軍は26989人の内、帰還が19397人。
台風が過ぎると、閏7月5日から日本軍の攻撃。南宋人以外は殺す。

モンゴル襲来で、朝廷、寺社の西国の荘園からの年貢は入らなくなる混乱が生じる。また幕府は恩賞する地がなく困る。大荘園の地頭職を、10町、5町、3町の3ランクに分け、くじ引きで武士に配分するなども行う。

弘安の役が終わっても安心はできずに、異国警固、石築地の修理を御家人に課す。川の河口への乱杭の設置、楯・旗・征矢の調達も命じられた。
惣領以外の者に異国警固番役を命じる。これは惣領の反発を呼ぶ。惣領制の解体につながる。
祈祷も神戦と意識されていた。神領興行(造営)、寺社領の返付などを行う。

1264年にモンゴルはサハリンに兵を送る。アイヌを征討。蝦夷はサハリンでギリヤークと対立していたが、ギリヤークはモンゴルに服属したために襲う。1284〜86年にふたたびアイヌ征討。
日蓮の書状に1268年にエゾでアイヌが蜂起し、エゾの安藤五郎が殺されるとある。
1318年にふたたびエゾの反乱が起きる。1325年にも反乱がある。北の蒙古襲来である。

なお、元とは対立だけでなく、日元貿易も行われていて、それは北条家の独占。幕府は1264年に九州の人が「御分唐船」と称して私船を出すのを禁止している。
輸出品には、砂金、円金、細絹、水銀樽、金胴(鎧の下に着る武具)・腹当、大刀・刺刀(さすが)、茶杯(茶碗)、半挿たらい、鈴箱、宿直物(夜具)、茶入物台、蒔絵の硯箱、小袖など、織物・武具・工芸品に及んでいた。
また珠(真珠)があり、マルコポーロは黄金のほかに真珠のことも日本の特産と記している。

金澤(北条)実時は北条泰時の孫だが、称名寺を建立し、宋版一切経を寺に寄贈。境内に金沢文庫を造り、内外の書籍や経典を収集した。王朝文化だけでなく中国文化にも憧れていた。農書や白氏文集もある。中国陶器も多い。

寺社造営料唐船もある。1300年代には莫大な費用がかかる寺社の造営のために、貿易船が派遣される。貿易の利潤で建てるわけである。背景に多くの荘園が荘園領主の手を離れたことがある。建長寺船や天竜寺船が代表。初例は、1306年の称名寺造営料唐船。元の滅亡まで続く。その後も日明貿易や日朝貿易でも使われる。

貿易商人だけでなく禅僧や律僧もこれらの船を使う。僧にとって、入宋はステータスだった。

唐物は愛好された。唐絵も多数輸入される。喫茶も広まる。貿易品は直接、鎌倉にきた。和賀江島(逗子市)六浦(神奈川県)が窓口である。

唐物趣味は室町時代になると唐物荘厳と様式化される。

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