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zoom RSS 「シリーズ日本中世史A 鎌倉幕府と朝廷」近藤成一著

<<   作成日時 : 2017/09/08 22:00   >>

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この本は次のような構成になっている。「1.鎌倉幕府の成立と朝廷」「2.執権政治の時代」「3.モンゴル戦争」「4.徳政と専制」「5.裁判の世界」「6.鎌倉幕府の滅亡」である。裁判のことを章立てしているところが特色であるが、鎌倉時代の通史である。

鎌倉幕府は考えてみると不思議である。「なんで関東の狭い鎌倉で幕府を開いたのか」ということである。この本もそのような視点で記述しているが、別に明確な回答が書かれているわけではなく、史実を追っている。
読んでみて、当時は朝廷、公家、寺社の荘園と、鎌倉幕府の御家人が治めた地所の2つがあり、朝廷、公家、寺社は遠方の当該地を治めたり、京都の治安などに幕府権力・武力を必要としていたわけだ。

以下、いくつか勉強になった点を列挙しておきたい。

院政は自分の皇統を続けさせるため(皇位継承の決定権を握る)に行われた。後白河院の院政時代が有名だが、以降も鎌倉時代を通して院政は存在していた。

平家を追った木曽義仲が北陸、山陰、京都を支配し、頼朝は東海、東山を支配し、平家は九州、中国、四国にいて、朝廷には年貢が入らなくなる。そこで頼朝に命じ、頼朝も朝廷の年貢と荘園の復興を約束したわけである。
そこで頼朝は義経、範頼によって木曽義仲、平家を追討させる。その結果、平家没官領が頼朝に与えられる。

その後、義経、行家を追討することになるが、その際に荘園、公領の区別なく、段別五升の兵糧米を徴収する権限を付与される。臨時の措置だが、これが幕府の守護、地頭設置の朝廷による認可とされる。義経追討を名目に東北の藤原氏まで滅ぼす。

鎌倉時代は地頭職は平家没官領と謀反人所帯跡に限って設置される原則が生まれる。承久の乱は後鳥羽院が北条義時の追討を命じたが、倒幕を意図したものではない。何人かの守護、御家人は後鳥羽院の方に参じたが、北条政子は義時に対する逆臣の汚名を御家人全体が蒙ったとして「名を惜しむのやから」に団結して反撃を求め、勝利する。その後の地頭が新補地頭。

地頭は荘園の下地を管理する荘官の一種で、従来の下司に相当。任免権が本所にあるのが荘園、地頭は頼朝の家来として御家人になることであり、頼朝に任免権がある。

朝廷の公卿の官職は洛中にあるのが原則。だから頼朝が上洛した時に右大将に任じられる。鎌倉に帰ったので朝廷は前右近衛大将としたが、朝廷は頼朝の権力を治安維持に利用する為に守護を通して諸国の武士を統率する地位として征夷大将軍として頼朝を処遇する。
頼朝の家人たる者(御家人)は守護の指令に従い大番役(鎌倉や京都、国衙に結集する武士)を勤める。

政所の別当は一人に限るものではなく、複数の別当の中で代表して職務を行使する者のことを執権と称する。

下知状に執権と並んで署判を加えるのを連署という。連署と執権は同格となる。

中世は原告のことを訴人、被告のことを論人といい、それぞれの主張の理非を巡って争うことを相論という。そして裁許状をだす。

御家人の味方をするのが将軍、御家人が裁判で負けた場合は何らかの御家人救済策を考えることが求められた。その点、執権は自身が御家人だから、第三者的に判断できる。

寛喜(1230)に飢饉がおきる。その時に御成敗式目が制定される。法としての網羅性はない。また重要な法理について、法理そのものの規定はどこにもなく、その法理の応用や例外が規定されている。だから、すでに存在すると認識されていた法理についての当時の幕府当局者の最大公約数的理解をまとめたものという位置づけ。

鎌倉時代は商人の船によって入宋する僧や渡来する僧が多くいた。107人という統計資料もある。

文永の役は、大船126艘、士卒の数は5600人、船員6700人という規模か。この時の恩賞は翌年おこなわれる。
弘安の役は高麗中心の東路軍300艘で15000人(高麗1万、残りは漢と元)、江南軍は3500艘に10万余人。
暴風雨によって、東路軍は、東征軍9960名、水手など17029名の内、生還者が19397名とある。江南軍はもっと被害が大きい。
この時の恩賞は難航する。配分する土地も無く、荘園ごとではなく、それを細分して町単位で恩賞として配分するようなことをした。

弘安徳政を安達泰盛が行う。悪党禁圧などで昔に戻すという狙いである。霜月騒動で安達泰盛は討たれる。そして内管領の平頼綱が幕政を主導する。
正応6年に鎌倉で大地震。この混乱の中で頼綱は討たれる
そして永仁5年(1297)に永仁の徳政令。質流れ、売却地の取り戻し。運用に極力制限を加える内容があった。
嘉元3年に鎌倉は大地震。嘉元の乱がおこる。

鎌倉時代は訴訟が多発する時代。相続で分割も、新田が増えず、細分化でいきづまる。すなわち、12世紀に広大な未墾地を開発して、荘園として手続きし、実質は開墾主が治める。膨大な荘園を有する本所も細かいことを云わなかった。12世紀末頃には当時の技術で開発可能な地はなくなる。そこにもってきて当時は分割相続だから行き詰まる。治承・寿永の乱、承久の乱があった時は勝者は敗者の所領を得ることもできた。

裁判では、本所(荘園主)地頭間相論があるが、下地を分割して、本所、地頭の双方がそれぞれ排他的に支配する領域をつくる。均等に分けるのは下地中分。それぞれが排他的に支配する領域を一円領と呼ぶ。
中には本所が支配を強め、集中することもある。この時に下司などの現地荘官が排除されると悪党になる。

悪党は、正安、乾元(1299〜1303)の頃は貧弱な集団だったが、正中、嘉暦(1324〜29)の頃には豊かな悪党が多くなる。悪党が他人の紛争解決などを請け負うから金が入るようになる。

正中の変、山陽、南海の悪党、蝦夷の反乱、そして元弘の変で滅んでいく。

北条氏は京都にいなかったから公卿として高い位にのぼる必要もなかった。鎌倉にあったから、朝廷と幕府は別のものと意識される。しかも150年続くことで、幕府と朝廷の関係は恒常的な感じとなり、京都にあった室町幕府も幕府と朝廷の形を維持して江戸幕府に続く。

鎌倉幕府は内部での粛清と、将軍・執権の早死が多いと、改めて思う。


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