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zoom RSS 「蒙古襲来」 新井孝重 著

<<   作成日時 : 2017/09/06 08:55   >>

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蒙古襲来のことを、一度、きちんと勉強しようと思っていたが、この本で少しわかった気がした。力作である。

はじめにモンゴル帝国のこと、そして高麗がモンゴルに屈服する過程、高麗における三別抄の反乱のことを記している。

当時の北条家の中では反得宗派との抗争があり、対外のことは考える余裕も無かった。文永9年(1272)に名越時章と北条時輔が殺される二月騒動が起き、北条時宗、安達泰盛への権力集中が進む。明確な罪は見出せないような殺戮であった。名越時章の保持していた筑後、肥後、大隅の守護職が幕府に没収される。異国警固しやすい体制になる。
文永8年に幕府は九州の防御に武士を派遣する。これまで九州に地頭職を持つ武士も、自身が現地に下ることはなかったが、幕府から現地入りを命令される。

モンゴル軍を前にすると、兵力の元になる御家人の数が絶対的に足らなかった。当時は御家人の家単位の出撃が基本。肥前では在地土豪279家のうち、明らかに御家人と確認できるのは72家だけ。
そこで本所一円地(公家や寺社の荘園領)の非御家人を超法規的に動員し、後には悪党までを戦力として使い出す。この結果、恩賞問題がさらに大変になる。

文永11年(1274)に蒙漢混成軍25000人と高麗軍8000が対馬に来る。そして博多湾岸でモンゴル軍は紙砲、鉄砲という火薬を包んだ球状の鉄や陶器の炸裂弾を投げ、その音で神経質な馬を驚かせた。矢には毒が塗ってあり、弓は短弓で飛距離200bもあり、日本の2倍。立ち並んだ戦列に武者が突き進むと、モンゴル軍は真ん中をわざと空け、誘い込んで包み込んで討ち取る。指揮官は高い所にいて太鼓で進退を指図した。
互いに名乗りあい、功名をあげるのも一人一人の勝負と考えてたのが日本だが、彼等はに大勢で押し殺し、生け捕りにする。敵陣に駆け入る勇気ある武者ほどやられてしまう。勇名を馳せた武士もでるが、怖じ気づく武士も多かった。

この時は一日の戦いではなく実際は1週間程度。その後、モンゴル軍はいなくなるが、この時期は10月(太陽暦では12月)であり、大風というよりは予定の撤退だったのではないか。日本の支配層を交渉のテーブルに引きずりだす目的ではなかったか。

当時の戦功とは、おのれの力と技と勇気、つまり武勇を証明することで、一番駆け、頸の分捕り、自身か従者の討ち死にか負傷などが戦功の証し。個のもので集団のものではなかった。

その後は鎮西西奉行だけでなく、安芸守護にも梶取(かんどり)、水手(かこ)について協力するようにと指示するなど西国一円の武士に指令がいく。日本軍は敵国、敵舟への襲撃も考えたが、日本の船では無理。熊手を使って自分の舟を横付けして、乗り移って船中に斬り込むという奇襲しかできない。
結局、石垣を造る要害警固令が出る。海に面して垂直に一丈(約3b)以上石を積み上げ、陸側は緩傾斜にして馬に乗ったまま上に上り、敵船に矢を射ることができるようにした。約20qの長さである。
長門の防護も考える。こうして、いつモンゴルが来るかわからない中で軍事的緊張を強いられる。

モンゴルは1276年に南宋を無条件降伏させる。1279年に残党は全滅。膨大な南宋攻略の失業武士を日本遠征に利用する。高麗も協力し、1279年に準備。1281年に再度の遠征令をだす。4万と10万の軍勢である。弘安4年(1281)に東路軍が博多沖にくる。日本は士気は高くなかった。蒙古もすぐに上陸しなかった。志賀島では戦闘がある。

東路軍は壱岐島沖で江南軍の到着を待つ。伝染病が蔓延して3000余人が死ぬ。江南軍は肥前の平戸に10万の大軍、3500艘でくる。東路軍も平戸島付近に集まり、鷹島を占領する。7月30日から激しい風雨で翌日に暴風雨。3800艘が沈み、200艘があるだけ。
置き去りにされた兵は武士に攻められ、殺される。

この後も3度目が予想され、幕府は緊張を強いられ、悪党も警固に使う。幕府直属の部隊をつくる動き(楯、征矢、旗の準備)もでる。

恩賞の見極めが大変だった。そして鎮西談義所(寺社関係、荘園住民らの非御家人の訴訟)を設ける。北条氏の九州統治の鎮西探題をもうける

寺社仏閣が戦功を要求。祈祷は位置が大事であり、モンゴルの位置もわからないということもあったようだ。安達泰盛も密教に傾倒する。神国意識も出る。

クビライは弘安9年(1286)に諫言を受けて日本遠征をやめる。だけど日本には伝わらず、怯え続ける。ますます神に頼る。
鎌倉幕府は戦争の名目で国内支配を一挙に押し広げる。京都管轄の権限まで取り上げる。天皇、公家は為政者としての自覚を持つようになる。あるべき政治を志向するようになる。後醍醐天皇が登場する。宋学の君臣名分論、王権の絶対化の思想が生まれる。

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